2012年12月25日火曜日

米にまつわる習慣

伝統的な出産習俗を、簡単にまとめてみると、以下のとおりであった。誰もがお産は産婦が産むものであり、そのやり方は産婦が決めるものと了解していた。お産体験による、体感的知識が重視され、たとえば、腰のどのあたりを押してもらうとお産が楽だとか、こういう姿勢がいきみやすい、「しきり」が来ないと本当のお産じゃないなどの知識が母から娘へ体験者から次に体験する人へと伝えられ、また自宅出産であったため、弟妹の誕生を目の当たりにする場合も多く、娘たちは自分の心の中に「本当のお産知識」をたくわえる機会を持つ場合が多かった。

お産体験上で得た、楽で産みやすい座位のお産姿勢が行なわれていた。あるいは、会陰裂傷を防ぐための介助側の助産技術(岡村島の「後押し」)なども実行されていた。心が安まる身内の人々だけで産婦は支えられていた(産婦の心の安定を大切にした)。印夫拒絶型、夫婦積極協力型という相反する二種類のお産習俗があった(出産文化は多様であった)。そこでは常に産む本人の体験する痛み方、感じ方に焦点が合わされ、「産む本人がお産をわかること」、「頭の中に明確にお産がイメージできること」、そして「産婦が産むこと」が基本であった。

つまりお産がまだまだ医療対象のできごとではなく、誰かの助けよりも個々人の対処すべき自助努力に任されていた当時、お産についてのすべての価値規準は、産婦自身が「産みやすいかどうか」であったことがわかる。お産が始まったら白米飯を炊いて(あるいは家人に炊いてもらって)、「お産の時、力がでるようにと、痛いお腹をかかえながら食べた(あるいは無理に食べさせられた)」。という人は多かった。

また米という点ていえば、お産終r直後に「生米をかむという風習があったことを、古い習俗の温存されている野忽那島で九歳の子供から聞いた。九一〇年の初産の時のことで、世話をしてくれた実けから「これをかめと数粒渡された。何のためなのか意味不明だという。米のもつ呪術的な力によって雌後の大出血などを防いでもらおうとしたのか、実際の栄養的な意味づけをしていたのか、この風習は東北地方などでも行なわれていた。米粒ではないが、稲わらを川いて作る米俵を出産時の救物として使うのは、どの地方でも共通していて興味深い。米を抜いた後、米俵をとり除き、俵包の部分を産婦が座蒲団のようにしてお産時に坐るのである。

また「産したら白米飯よ」と、私の闘いたかばあさんたちはどの人もを揃えた。短い人で約一週間、長い人では五日間も通常の家人の(麦飯、とうもろこし)とは別に、白米飯を食べることが認められていた。白米飯でなければ産後の肥ぐちが忠く、健康体にもどりにくいと考えられていたのである。魚島では敗戦前後で、この産後に食べる米を妊娠中に俵で用意し、陣痛が始まるとその米俵に頭つき相撲をするような姿勢でいきんだという。

米ではないがもち米の粉を丸めて、味噌汁什県てで食べるタンゴ汁は、け乳の出がよくなる産後食として、海辺といわず山村といわず推奨されていた。「タンゴ汁を食べると乳が張ってきて本当によく出た」と、これも皆、目を揃えるから、実際の効用も高かったらしい。私の次女はミルクが嫌いで、母乳しか飲まない乙ナだったため、母乳をたくさん出そうと栄養のバランスのとれた質のよい食事をと、心がけたものだ。