2014年12月17日水曜日

失われる「海外出動はしない」の原点

「今後の課題は、陸自も米軍同様、「戦うように訓練し、訓練したように戦う」ことのできる訓練環境の整備が重要」(『朝雲』二〇〇四年七月一日付)である。ここではもう「戦う」ことこそが目標とされる。「人道復興支援」とは別の意図、すなわち「海外戦闘の準備」にそなえる機会、そのための訓練の場として、イラク体験を活用すべきだと、そう受けとめられている。二〇〇四年一一月、イラク任務に第四次派遣隊として出発する陸自・第六師団第二〇普通科連隊の指揮官福田一佐に、元東北方面総監の太田陸将から、「千人針」が贈呈された。この記事も『朝雲』(二〇〇四年一一月一一日付)に出ている。「千人針」とは、『広辞苑』によると「一片の布に千人の女が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作り、出征将兵の武運長久・安泰を祈願して贈ったもの。

日清・日露戦争の頃始まり、初めは「虎は千里走って千里をもどる」の言い伝えから寅年生れの女千人の手になったものという」とある。弾よけの腹巻を巻いて海外出征そんな雰囲気が伝わってくる。イラク派遣とは戦闘や戦死をともなう任務だと覚悟せよ、退役陸将は、隊員や家族に、そういい聞かせたかったのだろうか。送り出すほうも送られる側も殺気だってきた。「気分はもう戦争」といった感じさえする。

二〇〇五年、海上自衛隊・呉地方総監部が配布したカレンダーに「維新元年 海上自衛隊」の文字がおどった。インターネットで閲覧できる海上自衛隊のホームページにも自衛艦旗(旧海軍の軍艦旗でもある)とならべ「維新元年」の文字が記されていた。なにを「維新=体制一新」するつもりかさだかでない。だが、一九三〇年代の軍ファシズム運動が「昭和維新」を旗じるしに軍部独裁にいたったことはよく知られる事実だ。「平成の自衛隊」も、その維新を声に出しはじめたのである。憲法改正=自衛軍創設を待ちのぞむ自衛隊の意欲表明、とみるべきなのか。ちなみに、この年一一月には自民党の「新憲法草案」が発表されている。

そもそも、と振りかえれば、自衛隊に「海外出動」などなかった。そのような任務など「ありえない」とされていた。防衛省への移行にともない二〇〇六年に改正されるまで自衛隊法第三条は、「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする」と規定し、任務を「外部からの侵略阻止」=国土防衛のみとしてきた。それが「自衛隊は合憲である」とする政府解釈のよりどころであった。国家「正当防衛権」の最後のとりで、「専守防衛」に徹する最小限の実力、だから憲法九条の下でも許されるという理屈である。

加えて、「国会決議」によっても「海外出動はできない」とはっきり確認された。「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」がそれだ。自衛隊法が成立した一九五四年六月二日の参議院本会議で、付帯決議として採択された。「本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動はこれを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する。(拍手)」この決議に木村篤太郎初代防衛庁長官は、こう答えた。「申すまでもなく自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接並びに間接の侵略に対して我が国を防衛することを任務とするものでありまして、海外派遣というような目的は持っていないのであります。従いまして、只今の決議の趣旨は、十分これを尊重する所存でございます。」