2015年12月16日水曜日

本当に実現できる方法とは

トラブル、すなわち法律問題が起きたときには、必ず相手がいます。その相手とうまく折り合いがつけばいいのですが、相手が話の通じない人だったり、我を通したり、いろんな理由で話がつかないことになったりするのが現実です。

むしろ、相手がそういう困った人であるために、トラブルは発生します。法律とは本来、そういう場合でも、しっかりと使えるものであるはずです。本当に満足な話がいつでもスムーズにつくのであれば、なにも法律など要らないのです。

今まで法律があまりアテにされなかったのは、幸いにしてアテにしなくても済んだことが多かった、ということもあるでしょう。しかし、「幸いにして」ということばかりではありません。そういうことで済まないと、ちょっと困ったことになります。

 確かに、日本の法律にはルールが書いてあります。具体的な手続も、一応のことは書いてあります。ところが、それはあくまでも「一応」にすぎません。実際に「権利とか、法律に書いてあることを、あなたが本当に実現できる方法があるか」といえば、話は別です。

「実現する方法」とは、「実現する手続」のことです。いくら「こうするのが法律的に正しい」と力をこめて主張しても、あるいは本当に正しいとしても、それを実現するには「手続」を踏まなければならないことになっています。

「手続など面倒くさい」「力ずくでやろう」と思うかもしれません。お金は絶対に払ってもらえるはずだからと勝手に相手の財布から取り返すとか、自分の物だからと力ずくで取り返すとか、あるいは自分が入れる場所のはずだからと鍵をこじ開けて入るといったことも、場合によっては許されると思うかもしれません。

2015年11月17日火曜日

不良債権の重圧

こうした不良債権額の推定は、場合によっては控えめ過ぎるとも考えられる。エコノミスト紙が、九三年二月九日号で「日銀考査で叱責された富士銀行」と題するレポートを掲載したこともあり、公表されている不良債権の規模についての金融市場の疑念を強めることになった。同誌によると、日銀の考査資料をペースとすれば、九二年一ー月時点での富士銀行の要注意与信額(これがそのまま不良債権を意味するわけではないとの旨が同誌に付されている)は五兆四五〇〇億円であった。九三年三月期決算での同行の開示不良債権が一兆一四○○億円であったことと比較すると、なんと四・八倍もの規模であった。いずれにせよ、銀行が直面している不良債権の規模は、金融システムの安定性にとっては重大な脅威である、とのシグナルは明確である。

バブル崩壊の後遺症ともいうべき巨額な不良債権の発生は、銀行の経営環境に重大な影響を及ぼすことになった。銀行収益は未曾有の金融緩和下で減益傾向をみせているし、不良債権問題への対応は銀行の体力を著しく消耗させている。このなかで格付けの相次ぐ低下が示すように、銀行に対する信頼性そのものに変化、が感じられるくらいである。まさに、金融システムの安定性が不良債権の重圧によって軋みを立てだしたのである。

銀行の収益に対する影響は相当なスケールになっている。バブル崩壊後における都銀の収益状況をみると、不良債権の重圧がすさまじい影響を及ぼしていることが明確にみてとれる。他の業態の金融機関との比較において、都銀が最強であるとすれば、金融機関全体の収益状況の悪化は、この都銀の動きから十分に類推しうるであろう。

日本銀行は九〇年代に入って、金融システムの思いもよらなかった動揺に対処するためもあり、金融緩和策を積極化させた。金利は公定歩合でみると、九三年には明治以来の最低水準を更新するまでに引き下げられている。通常、金融緩和期には銀行にとっては調達金利の低下が貸出金利のそれを上回るため利ザヤが改善し、収益の増加に寄与する。実際、銀行にとっての本業の利益を示す業務純益は、都銀をとれば九〇年度の一・四六兆円に対し九二年度には二・五二兆円へと、わずか二年で一兆円強もの急拡大をみた。だが経常利益は逆に九〇年度の一・六六兆円をピークに、九二年度には〇・九六兆円に縮小し、続く九三年度には〇・五六兆円にまで激減している。

これは不良債権の償却のために貸倒引当金を大幅に積み増したことが基本的背景にある。だが、九三年度から本業の利益である業務純益の減少が始まったことは特筆に値する。記録的金融緩和下での業務純益の縮小は、通常の金融緩和策ではもはや銀行収益の改善も見込めないことを意味している。このことは、不良債権にかかおる潜在的損失が増大するなかで、銀行が金利減免措置をとることを余儀なくされ、結果的に金利未収分か急増していることも無視しえないものとなっている。

2015年10月16日金曜日

金本位制の放棄が重要

一九三六年になっても金本位制に固執した第四グループのオランダ、フランスは、スペインと地理的に近いにもかかわらず、ひどいデフレに陥り、なかなか回復しませんでした。「大恐慌論文集」では、物価だけでなく、生産活動など他の経済指数についても、金本位制との関連性を示しています。どこの国でも、大恐慌のときには、物価と生産活動に強い相関が見られます(日本は物価の下落にもかかわらず生産の落ち込みが少ない、例外的な存在です)。そして、物価の下落も、生産活動の落ち込みの程度やその後の回復も、やはり金本位制からの離脱時期によって決まっていたのです。

一国の歴史だけだと、それぞれの国の事情などもあってなかなか本質がみえません。しかし、国際比較アプローチの観点からみると、問題の本質が浮かび上がってきます。しかも、国際比較は客観的なデータ分析によって行われているので、きわめて説得的です。こうした国際比較重視の大恐慌研究は、アイゲングリーンら(カリフォルニア大学)によって一九八〇年代半ばから始められました。彼は、この分野で重要な貢献をしたテミン(マサチューセッツ工科大学)とともに「大恐慌論文集」に書評を寄せ、バーナンキの貢献を高く評価しています。

また、この分野で重要な貢献をしたクリスティーナーローマー(カリフォルニア大学)は、次期CEA(経済諮問委員会)委員長に内定しました。アメリカの底力をみた気がします。これで、アメリカの次期政権は、大不況シフトになったといえます。一九二九年のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する大恐慌は、近代経済史上最大の出来事です。一九三六年に発表されたケインズの「一般理論」を持ち出すまでもなく、そもそもマクロ経済学(一つの国の経済全体を扱う経済学。適切な経済指標とは何か、望ましい経済政策とは何かという考察を行います)自体が、大恐慌によって生み出されたものです。大恐慌を説明する学説は、数多くあります。

一九二〇年代のバブル崩壊と、その結果としての消費・投資の落ち込み、銀行危機による流動性(現金)不足、各国の保護主義による縮小均衡、恐慌による心理パニックなどなど。その中でも、長い間大恐慌研究の中心課題だったのが金融政策の役割についてです。アメリカの歴史を見ても、貨幣供給と物価変動や生産水準が、強い相関を示していることはわかっていました。問題は、何か原因で、何か結果であるかだったのです。一九七六年にノーベル経済学賞を受賞したフリードマンは、一九六〇年代中頃、貨幣供給が過少になって物価の下落と生産水準の低下を招き、大恐慌を引き起こしたと主張しました。要は、金融政策の誤りが大恐慌の原因だったというわけです。

その一方、貨幣量の減少は実体経済活動の結果にすぎない、という反論もあり、アメリカのみの研究では決定的な答えはなかなかみいだせませんでした。この論争に決着をつけたのが、前述した、一九八〇年代半ばのアイゲングリーンに始まりバーナンキが発展させた国際比較アプローチでした。この国際比較アプローチは、大恐慌期の金融政策が金本位制という外生的要因によって規定され、その金本位制に対する各国のスタンスによって、各国の実体経済のパフォーマンスが影響されていたことを証明しました。この意味で、金融政策が大恐慌の原因だったのです。この研究を突破口として明らかになったことは数多くあります。

たとえば、なぜ各国ともに金本位制に固執したのでしょうか。その答えは意外に単純で、各国の政策担当者が「金本位制=経済の繁栄」という幻想をもっていたからです。この幻想は、第一次大戦前には金本位制によって世界経済が繁栄したことから生まれました。しかし、第一次大戦後は、経済発展に伴う金が不足したこと、第一次大戦を経て、覇権がイギリスからアメリカへ移行しましたが、黒字国であるアメリカに覇権国の自覚がなく、緊縮的な金融政策をとったために、国際的な貨幣供給の減少が生じたことなどが、世界的な大恐慌につながっていったのです。先ほど触れた、次期CEA委員長のローマーは、一九三〇年代のアメリカの大恐慌について、財政政策ではなく金融政策の効果によって脱出できたという有名な論文を書いています。

2015年9月16日水曜日

定年制の現実的な意味

しかしながらこの年齢層の労働者を果して高齢者として壮年層と区別することが適切かどうかには疑問が残る。日本の企業の定年制の歴史をひもといて見ると、それは明治三〇年代にまで遡る。財閥系の大企業で五五歳を定年と定めたという記録がある。しかしこの頃の日本は、人々の平均寿命は五〇歳にまで達していない社会だったのである。つまり、企業に五五歳まで勤め上げるというのは非常に珍しい例で、古稀の祝いと同じように赤飯を炊いて祝い、企業は永年勤続者として表彰したのである。

定年制の現実的な意味がガラッと変わってしまったのは第二次大戦後である。第二次大戦直後の日本人の男子の平均寿命は五一歳だった。ところが一九五〇年代から六〇年代の二〇年間に平均寿命は男女ともに飛躍的に伸びて、一九六〇年代末には男子は七〇歳を超えた。いいかえれば日本人はこの二〇年間に事実上全く年齢をとらなかったといっても良いような社会的変化を経験したのである。

その結果、かつては永年の生存と勤続の表彰としての意味を持っていた定年が、まだ働ける人々にやめてもらう一種の誠首のような意味を持つようになってしまったのである。一九七〇年代から日本の人口の高齢化が急速に進みはじめたのを受けて政府が音頭をとり定年制の延長に努力した結果、今日では大半の企業が定年年齢を五五歳ではなく六〇歳に定めるようになっている。

しかし、それでも日本人の寿命の大幅な伸びにくらべればそれはわずかな変化でしかない。日本人の寿命が戦後二〇年以上も延びたという事は、その一部には幼児死亡率が低下した事による統計的な効果が含まれているとはいえ、やはり多くの日本人が年をとっても元気でくらしているという事にほかならない。

印象的に言えば、今の六〇歳の人は昔なら四〇歳くらいの人の体力や元気があると言ってもよいだろう。そのように考えるならば高齢化は経済活力の低下であると考える必要はなく、これらの人々の人的資源をいかに活用するかによって日本の経済社会の可能性が大きく変わってくるという事である。

2015年8月21日金曜日

最新技術の恩恵を享受する

この扱いは、パソコン利用の実態と著しく乖離している。パソコンとその周辺機器の技術進歩は非常に急速なため、一年もすれば状況は一変してしまう。最新技術の恩恵を享受するには、毎年買い替えてゆく必要がある。作業能率があがることを考えれば、それでも無駄な投資とはいえない。かなり我慢して使うとしても、せいぜい二年間が限度であろう。パソコンとその周辺機器は、いまや事実上消耗品となっているのである。

パソコンの減価償却期間が六年間とされているのは、物理的な耐用年数を考慮してのことであろう。確かに、パソコンのハードウェアそのものは、六年間はもつ(多分もっともっだろう)。しかし、本来考慮すべきものは、経済的あるいは技術的な耐用年数である。新しいものが性能が良いというだけではない。古いマシンでは、最新のソフトウェアを用いることができない。インターネットへの接続も難しい。また、他人が作ったデータなどを利用したり、自分が作ったデータを他人に送るにも困難がともなう。

パソコン関連の技術は、「ドックイヤー」で進歩する。この基準で考えると、日本の税制は、パソコンについて四二年間の償却を強制していることになる。あるいは、逆に考えれば、通常の機器で六年償却が適切なら、パソコンはその七分の一つまり全額を初年度で償却してよいことになる。これは「パソコンか消耗品だ」という感覚と一致する。

通常、税制で「特別措置」といわれるのは、何らかの政策目的のために、本来あるべき税負担を軽減する措置をさす。たとえば、特別償却といわれる措置は、本来の耐用年数よりも減価償却期間を短縮する措置である。しかし、パソコンの場合には、実態に比べて減価償却期間が長くなっているため、税負担が本来あるべき水準より過大になっているのである。

実は、このような税制上のバイアスは、パソコンとその周辺機器に関して存在するだげではない。ソフトウェアの開発に関しても同様の問題がある。どれらに要した費用は、繰り延べ資産として一定期間にわたって償却することを求められる。しかし、これらの経済的寿命は、パソコンのハードウェアよりも短い場合が多いのである。

2015年7月17日金曜日

企業経営の成果を示す重要指標

これから本邦金融機関が健全な金融仲介機能を取り戻すためには、大規模な業務の再構築、合併や統合、提携は不可避であろう。グローバルに加速する金融再編の流れをさえぎるような保護的規制はもはやない。強力な外資は続々と本邦市場へ参入してきた。そうした外資に本邦の金融機関は、どのような戦略で対応しようとしているのだろうか。

金融再編のプロセスは、他のどの産業分野の国際的再編にもまして異文化の衝突を孕んで進行することが多いという点を考えてみたい。端的に言って、日本的経営文化と米国式経営文化の衝突である。冒頭に紹介した個人的な経験の一端は、株主から委ねられた資本の効率的運用のために、収益率の低い業務は容赦なくつぶし、不要な人員は抱えない米系金融機関の企業文化を象徴するささやかなエピソードでもある。

このような現象は、これから日本でも日常化してゆくだろう。結果の平等に偏ってきた日本的経営文化が、企業の活性化に貢献する社員へのインセンティブを、よい方向にも、そしておそらくは好ましくない方向にも、強化すべく修正されることは避けがたいようである。

また、米国などでもっとも一般的な企業経営の成果を示す指標としてROE(株主資本利益率)があるが、これは自己資本利益率ともいい、税引き利益を自己資本で除した数値で、株主の持ち分に対する収益力をあらわす。日本においても、これからの老齢化社会では、否応なく利子や配当など資産所得に依存する部分が大きくなる。

企業の発行する株式や債券など、資産の投資利回りが低ければ立ちゆかない社会である。その意味からもROEや資本コストを意識した米国式経営文化が強まるのは避けがたい。こうした要因も、日本的経営文化を、根底からゆさぶり、給与体系や雇用制度を変えてゆくだろうが、それがひきおこす社会的混乱を緩和するセーフティーネットは十分だろうか。

2015年6月16日火曜日

合理化から厚生費の削減

日産労組は、自動車総連の中心組合として、賃上げを九・六パーセント(一万五三〇円)に抑えた。その剰余価値は設備投資に振りむけられる。今期決算では、売り上げ一兆七〇〇〇億円、利益九九〇億円。今年度の投資総額は、当初予定の六九〇億円をさらにこ一〇億~一三〇億円程度上積みする。自動化が進められる。職場は次第に無人化される。七三年秋の石油ショック以降、応援、出向のたらい回しが続出した。応援先から帰ってみると、かつての職場がなくなったり、応援先からまた応援にだされるハシゴになった。嫌気をさしてやめるものも出た。

「嫌ならやめろ」職制は露骨だった。三月中旬に発表された産業構造審議会機械産業部会の報告「転換期の自動車産業」によれば、こんご自動車の普及率が頭打ちになるにともない、一〇年後には、一一万八〇〇〇人あまりが、「余剰労働力」となり、関連産業分までをふくめると、その数は三二万人にも達するとのことである。すでにそれに備えての人員削減が進行中であり、シェア争いと合理化による超過利潤は設備投資に振りむけられ、追浜工場でも、圧造、溶接部門のロボット化と、切り捨て自由の季節工への依存度が高まりつつある。

トップメーカーのトヨタは、トヨタ式合理化方式によって、そのトップの座を確保しているが、「トヨタを追い抜く」のが至上命令の日産では、当然のことながら、トヨタに追いつく大合理化政策に拍車がかけられている。昭和五四年までにトヨタを抜く、その悲願がいま推し進められている。「54P(Pは生産性の略)計画」である。こんご予想される低成長のなかで、いまのような超過利潤を確保するには、労働者を削減して、生産性を向上させるしかない、と資本家たちは考える。現在人員のままで、三〇パーセントの生産性向上、これが54P計画の骨子である。

すでに各工場には、原価低減部会、工数低減部会などが設置され、作業方法のさらなる強化が実行されている。それは共有部品をふやすとか、ひとりあたりの持場を拡げるなどのしめっけから、すでに一五年ほどつづけられてきた、労働者に「まずくて飲めるシロモノではない」と悪評を受けている、脱脂粉乳による牛乳の無料支給でさえ中止するまでに至っている。

これら部品の合理化から厚生費の削減などによって、この二年間に「少なく見積もっても一〇○億円以上節約できた」(横山能久取締役「日本経済新聞」四月二二日)とのことである。合理化とかコストダウンとかいえば、きこえはいいが、その本質は「やらずぶったくり」である。いま九州で建設されているダットサントラックの生産ラインは、座間工場の同設備にくらべて五〇パーセントの生産性向上が図られている。「生産性向上で賃金・労働条件の向上」。この同盟型スローガンがいかにギマンであるか、すでに、というよりは遅すぎたきらいがあるにしても、明らかになったのである。そればかりか、今年になって二名の死者までだすようになった。

2015年5月21日木曜日

感染症を宿主と病原体の間の争い

このような関係が成立していても、それぞれの生物はおのれの有機性あるいは同一性を守ろうとする。このことは、感染症を宿主と病原体の間の争いと見る見方が成立する理由でもある。自己の統一あるいは同一性を守ろうとする点においては、私だちと病原体や常在菌との間に区別はない。けれども、同し生物といっても大きさや構造は、ヒトと微生物とで大きな違いがあり、宿主と寄生体として、それぞれの立場も違うことは言うまでもない。そこで、宿主としてのヒトを中心において、生物の特徴を感染症と結び付けながら、宿主と病原体の関係がどのように成り立っているのかを考えてみよう。

生物をどのようなものと考えるかについてはいろい、ろな見方があるが、ここでは生物を、環境としての物質あるいは情報を利用して、自分という一つの実体を存続させている構造と考えてみたい。生物は環境の状態の変化に適応すると同時に、自分の同一性を極力保持しようとすることから、環境と切り離されて存在することはないと言える。生物は、環境に囲まれた状態で、自分を維持・保存するために必要なものを取り込み、不要なものや有害なものを排出し排除する。したがって入り口と出口の二つが必要となり、ものの流れが出現してくる。このように生物の存在は流れによって保たれているが、この流れによって支えられて不変でいられる状態を動的平衡ともいう。生物の身体の中には、いろいろなものの流れを可能とする仕組みがある。

2015年4月16日木曜日

ホワイトーカラーの誕生

工業の成長は、とりもなおさず都市の成長を意味し、それは、同時に、農村人口の減少を意味した。そしてその劇的な変化は前頁の表にあきらかなとおりである。十八世紀のおわりには、人口のほとんど九五パーセントは農村人口であったのが、十九世紀のなかばすぎから激減して、ついに、こんにちでは三〇パーセントにまで低下してしまった。おどろくべきスピードでアメリカの都市文明、あるいは工業文明は厦回をつづける。

シュナイダーは、ロスーアンゼルスを例にひいて、つぎのようにその歴史を記述している。「スペインの布教者が一七八一年に当時のメキシコ領カリフォルニアに一つの村をつくり、これを天使たるわれらが女王(Nuestra senora la Reina de los Angeles)と名づけた。一八四八年には、このロスーアンヘレス村は北米合衆国の小都市になった。しかし一八八〇年の人口は、ようやく一万人程度であった。ロスアンゼルス市は、今日では人口約七〇〇万を擁し市民は三〇〇万台に近い乗用車をもっている」

こんなふうに急速に成長した都市の住人は、ジェファスン的な独立自営農民と、だいぶちがうプロフィールの持ち主であった。まず第一に、都市のアメリカ人は、あたらしい経済のにない手であった。営々と勤勉にはたらく農民の精神を、たとえばヘンリー・フォードのような人物はうけついでいた、ともいえるが、都市の商工業は、もっぱら機を見るに敏、という原則でうごいていた。うまくチャンスをつかむことが、勤勉よりも重要な徳目であったりもした。

アメリカ英語でスマートというのは、才智にたけて、上手にものごとを処理する能力のことだ。そういう、スマートな人間の活力が、アメリカの都市の人間像として登場してきた。一般的にいって、都市のアメリカ人は教百程度も高く、考え方もリベラルであった。精力的に、能率的に、スマートな人間たちがチャンスをもとめてうごきまわり、しばしば一獲千金の幸運にありついた。たとえ、そういう大野心をもたなかったとしても、手を汚さずに、もっぱら書類をつくったり、会計帳簿をあわせたり、という頭脳労働で、きれいな生活をする人間たちがふえた。いうまでもなくホワイトーカラーの誕生である。

都市生活は、はなやかである。日抜き通りには商店がならび、歓楽施設があり、ひとびとは、快適で、そしてしばしばぜいたくな生活を約束されている。ニューヨークのマンハッタン、シカゴの金融街-いたるところに、小ざっぱりとした都会人が誕生する。ごくふつうのアメリカ映画をみただけで、そういう種類の人間像がどのようなものであるか見当がつく。身軽で、要領がよくて、態度や趣味が洗練されていて、そして、頭のいい人間たち。

2015年3月17日火曜日

金融危機の波及効果で失業率はどこまで上がるか

第二の特徴は高失業率社会である。バブル経済崩壊後、失業率は5%を超えたが、2009年以降はそれ以上の失業率になる可能性が高い。金融危機の傷口具合によるが、失業率は5%を超えて7~8%前後までいく可能性も否定できない。その理由は大きく二つある。一つは産業構造の転換が進んでいないことである。日本はサービス業中心に徐々に産業構造を転換してきたが、依然として製造業が雇用を含めて成長のエンジンになっている。

しかし、その製造業はトヨタを見てもわかるように、先の見えない混沌とした状況にある。米国への輸出で収益を上げてきた会社が多いため、その復活は米国経済の傷口の深さ次第である。米国経済が泥沼化すると、日本の製造業はいつまでも復活できないことになりかねない。もう一つは、非正社員の失業者が急増するということだ。2008年後半から派遣切りが目立つが、その動きは2009年に入っても衰えることはないだろう。先程述べたように、2008年12月の完全失業率(季節調整値)は4・4%で前月比O・5ポイント悪化したが、問題は「今までに例のない急速な悪化」ということだ。

2002年以降の実感のないタラタラとした景気拡大によって企業業績は潤い、失業率は改善したが、失業率改善の要因は派遣労働者などの非正社員が増えたことだった。正社員が増えて失業率が改善したわけではない。そのため、派遣切りが起きれば失業率が再び悪化するのは当然である。もちろん、今後景気が回復すれば非正社員も再び増えるだろうが、派遣労働の規制は強化されるだろうし、「派遣切り」と批判されたこともあって、大企業は非正社員を雇うことにためらいを感じる可能性も高い。

現実的な言い方をすると、「派遣労働者はいつでも解雇できる」という制度になっているからこそ、大企業は派遣社員制度を利用してきた。それを批判されるとなると、企業としては「それじゃ、もう派遣は使わない。海外に工場を移転する方がマシだ」ということになるからだ。1980年くらいから「内需転換」「産業構造の転換」の必要性は指摘され、90年代後半以降は非正社員の増加に対応した「抜本的な雇用政策」と言われてきたが、結局は明確に政策転換しないまま、そういったものを誤魔化してきた。そのツケを支払わされるのが2009年以降であり、その結果、慢性的な高失業率社会になる可能性があるのだ。

第三の特徴は、失業率が上昇するにもかかわらず、人手不足が激しくなるということである。バブル経済崩壊後の長期不況のイメージや今回の金融危機の影響もあって、失業率は高止まりで人手が余っているような印象がある。しかし、実のところ人手は慢性的に不足している。当たり前のことだ。少子高齢化で人口が減少している以上、人手不足は当然の帰結である。しかも、「日本は人手不足になる」ということは平成以降ずっと指摘されてきたことだ。政府や厚生労働省は公に「人手不足だ」と言い続けている。

2015年2月17日火曜日

企業の負債依存度

資本利用に関する予算制約がハードなものであれば、資本利用の対価を支払えるだけの収益性をもった投資プロジェクトでなければ、経営者も実行できない。ところが、資本利用に関する予算制約がソフトなものであれば、収益性のかなり低い投資プロジェクトであっても、それがシェア・規模の拡大に寄与する等々の理由で実行されてしまう可能性が生じることになってしまう。

しかし、かつてはメインバンク制が、株式の持ち合いがもたらしかねない予算制約のソフト化(換言すると、経営者・従業員の側のモラルハザード)を阻止する働きをしていたと考えられる。すなわち、メインバンクによる経営の監視がなされていたために、株主による直接の制約を免れていたにもかかわらず、従業員は、資本を浪費するような行動をとることはできず、資本の提供者に対して一定以上の見返りを提供しなければならなかったといえる。要するに、株式の持ち合いとメインバンク制は対となってはしめて、日本的経営を可能にし、それを効率的なものに保つメカニズムとして機能してきたとみられる。

こうした解釈に立てば、メインバンクの役割は、資本利用に関する予算制約をハードなものに保つことにある。したがって、メインバンクによる経営監視は、一定以上の見返りが資本の提供者に確保される状態にある限りは、経営者の行動の自由を認めるものである。しかし、資本提供に対する一定の見返りが確保されない(おそれのある)場合には、経営介入(銀行管理への移行)が行われる。この意味で、メインバンクと企業の関係は、企業の経営状態に応じて、内実を変えるものである(これを「状態依存型ガバナンス」という)。

しかし同時に、こうしたかたちでメインバンクが有効に経営監視機能を発揮できたは、一九八〇年代以前までの特定の経済的背景に支えられてはじめて可能なことであったと判断される。その経済的背景とは、従来の日本経済が基調的には資本不足型の経済であって、かつ企業の負債依存度が高かったことである。これらの背景なしに、メインバックが企業経営を規律づける強い力をもち得るとは考え難い。

すなわち、かつての日本の企業は、一般的にいって内部留保資金に比べて投資機会に恵まれており(すなわち、フリー・キャッシュフローがなく)、手持ちの収益的な投資機会をすべて実行するためだけにも、外部資金に頼らざるを得なかった。それゆえ、主たる外部資金提供者である銀行の了解をとることなくしては、企業は十分な投資を行うこともできないというのがかつての日本の状況だった。こうした状況下では。銀行が企業の経営に対して強い発言力をもち得たことは、当然といえよう。

2015年1月20日火曜日

帝都の礎「赤水門」

また西側の園路側溝に用いられた煉瓦もそのまま残されている。山下公園は、戦後しばらくの間アメリカ軍の住宅地として接収されていたので、残っているのが不思議ともいえる。アメリカ軍は配置形態にはあまり手をくわえず、そのまま公園住宅地として利用していたようだ。樹木が大きくなった公園は風格を備え、エトランゼ風につくられた公園は様式的な古さを全然感じさせない。観賞を主とした日本庭園は十分な維持管理が必要だが、山下公園のように利用本位につくられた公園でも、維持管理さえよければ十分いい状態で残されることを知った。

山下公園の北東の隅に石造りの洋風の小さな建物が目にとまった。小振りな建物ながら意匠が実にすばらしい。とくに天井に描かれたグラスーモザイクの草花模様が絶品である。柱には、次のように陰刻されていた。これは、「インド水塔」と呼ばれ、一九二三年九月一日の震災でなくなった同胞を偲んで、在留インド人が横浜市に寄贈したものである、という。竣工は、昭和一四年一二月。工事費は、二万円。現在のお金に換算すると約二〇〇〇万円といわれるが、人件費の値上がりや意匠の精巧さを考えると、現在ではとうていできる金額ではない。色の美しさは、残念ながらここでは表現できないが、一見に値する構造物とおすすめしたい。

前述した前島康彦は次のように書いている。「復興公園は、そのほとんどが原形を失ってしまった。大正末昭和初期の日本の公共造園のパターンの模範として、たとえIケ所でもよいから原型をなすものを残したい」山下公園は、道路側に高架鉄道が入り込んだとはいえ、大噴水のある中央の大パーゴラから西半分はかろうじて当初の配置形態が見られる。遺構も残り近代の公園を味わえる貴重な公園になっている。

「赤門」といえば東京大学の本郷口通用門の通称だが、「赤水門」は北区赤羽にある岩淵水門のこと。水門のゲートが赤く塗られているので、地元の人から親しみを込めてこうよばれる。岩淵水門で荒川から分流する隅田川は、川幅から考えると荒川の支川のようにみえるが元をたどれば隅田川が荒川の本流であった。(さらにさかのぽれば、利根川の本流である。)それまで千住大橋より下流を隅田川とよんでいたが、岩淵水門が完成すると、それより下流を隅田川とよぶようになった。また荒川放水路が「荒川」とよばれるようになったのは、戦後のことである。

戦前の大規模土木工事は、いくつか知られているが、荒川放水路工事もその中のひとつである。明治四四年からはじめられた荒川放水路工事は、まる二〇年かかり、明治・大正・昭和の三代にわたった。昭和五年の竣工。工事費は三一五〇万円。このような現場を担当する人は、二ヵ所を終えたところで定年を迎えることになる。

関東大震災後の復興事業や戦後の戦災復興事業およびオリンピック関連事業が、東京の都市基盤をつくったといわれるが、このような都市基盤を根本的に支えているのは、荒川放水路であることは意外に知られていない。隅田川を埋め立て、わが国最初のリバーサイドーパークである隅田公園ができたのも、荒川放水路のおかげである。関東大震災後、江東などの下町は工業地域として発展するが、それが可能になったのも荒川放水路が完成して、洪水の心配がなくなったからだ。ここでは、まず帝都東京の発展をささえた荒川放水路の成り立ちから話を進める。