2015年1月20日火曜日

帝都の礎「赤水門」

また西側の園路側溝に用いられた煉瓦もそのまま残されている。山下公園は、戦後しばらくの間アメリカ軍の住宅地として接収されていたので、残っているのが不思議ともいえる。アメリカ軍は配置形態にはあまり手をくわえず、そのまま公園住宅地として利用していたようだ。樹木が大きくなった公園は風格を備え、エトランゼ風につくられた公園は様式的な古さを全然感じさせない。観賞を主とした日本庭園は十分な維持管理が必要だが、山下公園のように利用本位につくられた公園でも、維持管理さえよければ十分いい状態で残されることを知った。

山下公園の北東の隅に石造りの洋風の小さな建物が目にとまった。小振りな建物ながら意匠が実にすばらしい。とくに天井に描かれたグラスーモザイクの草花模様が絶品である。柱には、次のように陰刻されていた。これは、「インド水塔」と呼ばれ、一九二三年九月一日の震災でなくなった同胞を偲んで、在留インド人が横浜市に寄贈したものである、という。竣工は、昭和一四年一二月。工事費は、二万円。現在のお金に換算すると約二〇〇〇万円といわれるが、人件費の値上がりや意匠の精巧さを考えると、現在ではとうていできる金額ではない。色の美しさは、残念ながらここでは表現できないが、一見に値する構造物とおすすめしたい。

前述した前島康彦は次のように書いている。「復興公園は、そのほとんどが原形を失ってしまった。大正末昭和初期の日本の公共造園のパターンの模範として、たとえIケ所でもよいから原型をなすものを残したい」山下公園は、道路側に高架鉄道が入り込んだとはいえ、大噴水のある中央の大パーゴラから西半分はかろうじて当初の配置形態が見られる。遺構も残り近代の公園を味わえる貴重な公園になっている。

「赤門」といえば東京大学の本郷口通用門の通称だが、「赤水門」は北区赤羽にある岩淵水門のこと。水門のゲートが赤く塗られているので、地元の人から親しみを込めてこうよばれる。岩淵水門で荒川から分流する隅田川は、川幅から考えると荒川の支川のようにみえるが元をたどれば隅田川が荒川の本流であった。(さらにさかのぽれば、利根川の本流である。)それまで千住大橋より下流を隅田川とよんでいたが、岩淵水門が完成すると、それより下流を隅田川とよぶようになった。また荒川放水路が「荒川」とよばれるようになったのは、戦後のことである。

戦前の大規模土木工事は、いくつか知られているが、荒川放水路工事もその中のひとつである。明治四四年からはじめられた荒川放水路工事は、まる二〇年かかり、明治・大正・昭和の三代にわたった。昭和五年の竣工。工事費は三一五〇万円。このような現場を担当する人は、二ヵ所を終えたところで定年を迎えることになる。

関東大震災後の復興事業や戦後の戦災復興事業およびオリンピック関連事業が、東京の都市基盤をつくったといわれるが、このような都市基盤を根本的に支えているのは、荒川放水路であることは意外に知られていない。隅田川を埋め立て、わが国最初のリバーサイドーパークである隅田公園ができたのも、荒川放水路のおかげである。関東大震災後、江東などの下町は工業地域として発展するが、それが可能になったのも荒川放水路が完成して、洪水の心配がなくなったからだ。ここでは、まず帝都東京の発展をささえた荒川放水路の成り立ちから話を進める。