2015年2月17日火曜日

企業の負債依存度

資本利用に関する予算制約がハードなものであれば、資本利用の対価を支払えるだけの収益性をもった投資プロジェクトでなければ、経営者も実行できない。ところが、資本利用に関する予算制約がソフトなものであれば、収益性のかなり低い投資プロジェクトであっても、それがシェア・規模の拡大に寄与する等々の理由で実行されてしまう可能性が生じることになってしまう。

しかし、かつてはメインバンク制が、株式の持ち合いがもたらしかねない予算制約のソフト化(換言すると、経営者・従業員の側のモラルハザード)を阻止する働きをしていたと考えられる。すなわち、メインバンクによる経営の監視がなされていたために、株主による直接の制約を免れていたにもかかわらず、従業員は、資本を浪費するような行動をとることはできず、資本の提供者に対して一定以上の見返りを提供しなければならなかったといえる。要するに、株式の持ち合いとメインバンク制は対となってはしめて、日本的経営を可能にし、それを効率的なものに保つメカニズムとして機能してきたとみられる。

こうした解釈に立てば、メインバンクの役割は、資本利用に関する予算制約をハードなものに保つことにある。したがって、メインバンクによる経営監視は、一定以上の見返りが資本の提供者に確保される状態にある限りは、経営者の行動の自由を認めるものである。しかし、資本提供に対する一定の見返りが確保されない(おそれのある)場合には、経営介入(銀行管理への移行)が行われる。この意味で、メインバンクと企業の関係は、企業の経営状態に応じて、内実を変えるものである(これを「状態依存型ガバナンス」という)。

しかし同時に、こうしたかたちでメインバンクが有効に経営監視機能を発揮できたは、一九八〇年代以前までの特定の経済的背景に支えられてはじめて可能なことであったと判断される。その経済的背景とは、従来の日本経済が基調的には資本不足型の経済であって、かつ企業の負債依存度が高かったことである。これらの背景なしに、メインバックが企業経営を規律づける強い力をもち得るとは考え難い。

すなわち、かつての日本の企業は、一般的にいって内部留保資金に比べて投資機会に恵まれており(すなわち、フリー・キャッシュフローがなく)、手持ちの収益的な投資機会をすべて実行するためだけにも、外部資金に頼らざるを得なかった。それゆえ、主たる外部資金提供者である銀行の了解をとることなくしては、企業は十分な投資を行うこともできないというのがかつての日本の状況だった。こうした状況下では。銀行が企業の経営に対して強い発言力をもち得たことは、当然といえよう。