2015年4月16日木曜日

ホワイトーカラーの誕生

工業の成長は、とりもなおさず都市の成長を意味し、それは、同時に、農村人口の減少を意味した。そしてその劇的な変化は前頁の表にあきらかなとおりである。十八世紀のおわりには、人口のほとんど九五パーセントは農村人口であったのが、十九世紀のなかばすぎから激減して、ついに、こんにちでは三〇パーセントにまで低下してしまった。おどろくべきスピードでアメリカの都市文明、あるいは工業文明は厦回をつづける。

シュナイダーは、ロスーアンゼルスを例にひいて、つぎのようにその歴史を記述している。「スペインの布教者が一七八一年に当時のメキシコ領カリフォルニアに一つの村をつくり、これを天使たるわれらが女王(Nuestra senora la Reina de los Angeles)と名づけた。一八四八年には、このロスーアンヘレス村は北米合衆国の小都市になった。しかし一八八〇年の人口は、ようやく一万人程度であった。ロスアンゼルス市は、今日では人口約七〇〇万を擁し市民は三〇〇万台に近い乗用車をもっている」

こんなふうに急速に成長した都市の住人は、ジェファスン的な独立自営農民と、だいぶちがうプロフィールの持ち主であった。まず第一に、都市のアメリカ人は、あたらしい経済のにない手であった。営々と勤勉にはたらく農民の精神を、たとえばヘンリー・フォードのような人物はうけついでいた、ともいえるが、都市の商工業は、もっぱら機を見るに敏、という原則でうごいていた。うまくチャンスをつかむことが、勤勉よりも重要な徳目であったりもした。

アメリカ英語でスマートというのは、才智にたけて、上手にものごとを処理する能力のことだ。そういう、スマートな人間の活力が、アメリカの都市の人間像として登場してきた。一般的にいって、都市のアメリカ人は教百程度も高く、考え方もリベラルであった。精力的に、能率的に、スマートな人間たちがチャンスをもとめてうごきまわり、しばしば一獲千金の幸運にありついた。たとえ、そういう大野心をもたなかったとしても、手を汚さずに、もっぱら書類をつくったり、会計帳簿をあわせたり、という頭脳労働で、きれいな生活をする人間たちがふえた。いうまでもなくホワイトーカラーの誕生である。

都市生活は、はなやかである。日抜き通りには商店がならび、歓楽施設があり、ひとびとは、快適で、そしてしばしばぜいたくな生活を約束されている。ニューヨークのマンハッタン、シカゴの金融街-いたるところに、小ざっぱりとした都会人が誕生する。ごくふつうのアメリカ映画をみただけで、そういう種類の人間像がどのようなものであるか見当がつく。身軽で、要領がよくて、態度や趣味が洗練されていて、そして、頭のいい人間たち。