それは経済学者が怠っているからというよりも、あまりにも急速に、経済の方が巨大化し、複雑化しているためでもある。しかも経済学の中にも、いくつもの流派があり、基本的な問題についても見解が異なることがしばしばである。残念ながら、もっとも有力な経済学説でさえ、現実に起きている経済現象を、ごく大雑把に、あるいは、ごく部分的に説明できているに過ぎない。普遍性があるように思われた理論も、別の時代には、まったく成り立たなかったりする。しかも、それに政治や組織の体質というものが絡むと、もっと奇怪なことが起こりはじめる。先の章でも述べたが、経済学の世界では完全に時代遅れとなって、すでに否定されている理論が、れっきとした政策として採用されたり、経済学の常識から言っても、それだけはやってはいけないというようなことが、堂々とまかり通ったりしてしまうのである。
ことにデフレについては、経験も理解も乏しかったのである。戦後五十年、経済は右肩上がりが続き、オイルショック以降、問題となり続けたのは常にインフレであった。バブルもまた、上地や株の資産インフレであった。インフレの経済学については、身近なところに実例がたくさんあり、それについては、よく研究され、政策当局も、インフレのコントロールということには、ある程度、習熟していたと言える。ところが、デフレとなると、実際に誰も体験したことがなかった。本格的なデフレが最後に起きたのは戦前であり、世界的に見ても、デフレという現象は、大恐慌以降、ほとんど起きていなかったのである。
そのため、デフレのデメリットについて、実感も危機感も乏しかった。「良いデフレ」という言葉が用いられたりしたのも、そうした認識不足のためだった。実際、物価が下がることは良いことであり、経済の安定化につながると考える一部の経済学者たちもいた。物価が下がると、同じ所得を得ていても、購買力が増し、裕福になるからだというのである。同じ所得が得られなくなることには考えが及ばなかったというわけだ。幸いなことに、ようやく日本銀行や政策立案者たちも、過ちに気づき始め、舵を取り直しつつあるように思えるが、そこでもまた手ぬるい対応に終われば、復活のチャンスを本当に失ってしまいかねない。
混乱を招きやすい要因の一つは、グローバル化時代の経済は、かつての経済の常識が通用しなくなっているということである。ところが、多くの国民も、その代表である政治家も、経済通と言われる人でさえも、その点をあまり理解していない。そもそも国全体の経済は、一人ひとりの個人や一つひとつの企業の経済とは、まったく異なる「常識」で動いている。前者はミクロ経済学といい、後者はマクロ経済学と呼ばれる。しかもグローバル化した開放経済のもとでのマクロ経済学は、ミクロ経済学がニュートン力学の世界ならば、相対性理論のような世界であり、常識的な原理が当てはまらないのである。自分の発射したピストルの弾が、どこまでも真っ直ぐ進み続けて、自分の頭を撃ち抜くというような不可思議な現象が、マクロ経済学では起きるのだ。
たとえば、景気対策に行われる代表的な政策である減税と公共投資を例にとろう。景気を良くするために、大規模な減税や公共投資を行い、すこし景気が良くなったと思ったら、円高がやって来て、回復しかけた景気を台なしにするということをしばしば経験していないだろうか。だが、これは、マクロ経済学的に言うと、必然的な結果なのである。減税や公共投資の増加は、通貨高を引き起こし、輸出を減らす方向に働くのである。助けたつもりが、輸出企業を苦しめ、雇用を減らす結果になる。それを防ぐためには、十分通貨供給量を増やしておく必要がある。日銀がそれを十分にやっていないと、円高になってしまう。
2013年7月8日月曜日
2013年7月6日土曜日
非常に心理的、精神的な現象でもある
さすがに近頃では、日本のあまりの迷走ぶりに、事態が本当に危うくなりかねないと見たのか、高みの見物と決め込んでいた人たちも、いい加減にしろと叫び始めているが、少し前までは、日本人はバッシングを避けるために、落ち目のふりをしているのではないかという意見さえもあったほどだ。彼らからすると、そんなに弱っているということが、まるでピンとこなかったのだ。しかし、現実に三万人を超える人が毎年自殺し、百万人を超える人がうつ病で治療を受けなければならないほど弱り続けているのである。一体、これはどういうことなのか。疑問は深まるばかりだった。
畑違いの問題にこれ以上関わるのはよそうと思いつつ、気が付いたら、私は深みへ入り込んでいた。もうここらで引き返そうと何度も思いながら、だが、疑問に思ったことは、おざなりに放置しておけない性分から、とうとうその核心部分にまで踏み込んでしまっていた。それまで私は、日本の陥っている状況が避けがたいものであり、仕方がないこととして受け止めるしかないと思っていた。だが、実際には不可避というよりも、むしろ人為的に招きよせた面が少なからずあるばかりか、本来一時的な現象を、永続的な現象であるかのように思い込んでしまい、自らの首を絞める方向に加速してしまった悪循環のプロセスが大きく関わってきた。それは、国全体が、間違った認識に陥ることによって、国自体を自ら弱らせてきた過程であり、それに無宰の国民が巻き込まれ、犠牲の山を築いてきたという状況である。その状況は、さながら、かつての戦争に至る自滅的な道程を思わせるものがある。
なぜ精神科医の私かこういうことを言わなければならないのかと言えば、一つには、それが経済的な現象であると同時に、非常に心理的、精神的な現象でもあるからだ。本論で述べていくように、三万人を超える自殺者のうち約三分の一は、デフレーションによってもたらされたデフレ自殺だと考えるが、このデフレという現象は、経済学的な現象であると同時に、心理的なダイナミズムが大きく関わっており、人々の心理状態がその発生に関与するだけでなく、デフレ状態が、逆に精神状態に影響を及ぼし、世界観や未来観さえも左右してしまうのである。
デフレから脱するためには、経済・金融政策が重要であるのは言うまでもないが、それだけでは不十分で、人々に取りついた悲観的な認知を修正することが必要なのである。ところが、経済の専門家たちさえも、悲観論を煽るような論調で、ますます国民を不安に既めるばかりである。そうした状況に危惧と苛立ちを覚え、見殺しにされてきた国民のためにも、一言言っておく必要があると思うに至ったというのが、二つ目の理由である。この三十年、何が起きてきたのか、どこで間違ったのかを正しく認識することが、日本が悪夢と迷妄から目覚め、この悪循環のプロセスに終止符をうつためには是非とも必要に思えるのである。
この十三年だけで、四十二万人もの人が、自殺によって人生を終えている。これは、太平洋戦争における空襲(原子爆弾を含む)による民間人の犠牲者五十万人に迫るものである。自殺に追い込まれ、自ら命を絶たなければならなかった人も、なぜ自分が死へ追い込まれたのか、それを知る権利はあるだろう。ただ、うつになったから、経済苦で追い詰められたからでは、本当の説明にはなっていないのだ。何かその状況を生み出したのか、そして生み出し続けているのかを知ることが、こうしている間にも、十七分に一人の人が命を絶っている状況に、もっと根本的な手立てを講じることにつながるはずである。
畑違いの問題にこれ以上関わるのはよそうと思いつつ、気が付いたら、私は深みへ入り込んでいた。もうここらで引き返そうと何度も思いながら、だが、疑問に思ったことは、おざなりに放置しておけない性分から、とうとうその核心部分にまで踏み込んでしまっていた。それまで私は、日本の陥っている状況が避けがたいものであり、仕方がないこととして受け止めるしかないと思っていた。だが、実際には不可避というよりも、むしろ人為的に招きよせた面が少なからずあるばかりか、本来一時的な現象を、永続的な現象であるかのように思い込んでしまい、自らの首を絞める方向に加速してしまった悪循環のプロセスが大きく関わってきた。それは、国全体が、間違った認識に陥ることによって、国自体を自ら弱らせてきた過程であり、それに無宰の国民が巻き込まれ、犠牲の山を築いてきたという状況である。その状況は、さながら、かつての戦争に至る自滅的な道程を思わせるものがある。
なぜ精神科医の私かこういうことを言わなければならないのかと言えば、一つには、それが経済的な現象であると同時に、非常に心理的、精神的な現象でもあるからだ。本論で述べていくように、三万人を超える自殺者のうち約三分の一は、デフレーションによってもたらされたデフレ自殺だと考えるが、このデフレという現象は、経済学的な現象であると同時に、心理的なダイナミズムが大きく関わっており、人々の心理状態がその発生に関与するだけでなく、デフレ状態が、逆に精神状態に影響を及ぼし、世界観や未来観さえも左右してしまうのである。
デフレから脱するためには、経済・金融政策が重要であるのは言うまでもないが、それだけでは不十分で、人々に取りついた悲観的な認知を修正することが必要なのである。ところが、経済の専門家たちさえも、悲観論を煽るような論調で、ますます国民を不安に既めるばかりである。そうした状況に危惧と苛立ちを覚え、見殺しにされてきた国民のためにも、一言言っておく必要があると思うに至ったというのが、二つ目の理由である。この三十年、何が起きてきたのか、どこで間違ったのかを正しく認識することが、日本が悪夢と迷妄から目覚め、この悪循環のプロセスに終止符をうつためには是非とも必要に思えるのである。
この十三年だけで、四十二万人もの人が、自殺によって人生を終えている。これは、太平洋戦争における空襲(原子爆弾を含む)による民間人の犠牲者五十万人に迫るものである。自殺に追い込まれ、自ら命を絶たなければならなかった人も、なぜ自分が死へ追い込まれたのか、それを知る権利はあるだろう。ただ、うつになったから、経済苦で追い詰められたからでは、本当の説明にはなっていないのだ。何かその状況を生み出したのか、そして生み出し続けているのかを知ることが、こうしている間にも、十七分に一人の人が命を絶っている状況に、もっと根本的な手立てを講じることにつながるはずである。
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