資本利用に関する予算制約がハードなものであれば、資本利用の対価を支払えるだけの収益性をもった投資プロジェクトでなければ、経営者も実行できない。ところが、資本利用に関する予算制約がソフトなものであれば、収益性のかなり低い投資プロジェクトであっても、それがシェア・規模の拡大に寄与する等々の理由で実行されてしまう可能性が生じることになってしまう。
しかし、かつてはメインバンク制が、株式の持ち合いがもたらしかねない予算制約のソフト化(換言すると、経営者・従業員の側のモラルハザード)を阻止する働きをしていたと考えられる。すなわち、メインバンクによる経営の監視がなされていたために、株主による直接の制約を免れていたにもかかわらず、従業員は、資本を浪費するような行動をとることはできず、資本の提供者に対して一定以上の見返りを提供しなければならなかったといえる。要するに、株式の持ち合いとメインバンク制は対となってはしめて、日本的経営を可能にし、それを効率的なものに保つメカニズムとして機能してきたとみられる。
こうした解釈に立てば、メインバンクの役割は、資本利用に関する予算制約をハードなものに保つことにある。したがって、メインバンクによる経営監視は、一定以上の見返りが資本の提供者に確保される状態にある限りは、経営者の行動の自由を認めるものである。しかし、資本提供に対する一定の見返りが確保されない(おそれのある)場合には、経営介入(銀行管理への移行)が行われる。この意味で、メインバンクと企業の関係は、企業の経営状態に応じて、内実を変えるものである(これを「状態依存型ガバナンス」という)。
しかし同時に、こうしたかたちでメインバンクが有効に経営監視機能を発揮できたは、一九八〇年代以前までの特定の経済的背景に支えられてはじめて可能なことであったと判断される。その経済的背景とは、従来の日本経済が基調的には資本不足型の経済であって、かつ企業の負債依存度が高かったことである。これらの背景なしに、メインバックが企業経営を規律づける強い力をもち得るとは考え難い。
すなわち、かつての日本の企業は、一般的にいって内部留保資金に比べて投資機会に恵まれており(すなわち、フリー・キャッシュフローがなく)、手持ちの収益的な投資機会をすべて実行するためだけにも、外部資金に頼らざるを得なかった。それゆえ、主たる外部資金提供者である銀行の了解をとることなくしては、企業は十分な投資を行うこともできないというのがかつての日本の状況だった。こうした状況下では。銀行が企業の経営に対して強い発言力をもち得たことは、当然といえよう。
2015年1月20日火曜日
帝都の礎「赤水門」
また西側の園路側溝に用いられた煉瓦もそのまま残されている。山下公園は、戦後しばらくの間アメリカ軍の住宅地として接収されていたので、残っているのが不思議ともいえる。アメリカ軍は配置形態にはあまり手をくわえず、そのまま公園住宅地として利用していたようだ。樹木が大きくなった公園は風格を備え、エトランゼ風につくられた公園は様式的な古さを全然感じさせない。観賞を主とした日本庭園は十分な維持管理が必要だが、山下公園のように利用本位につくられた公園でも、維持管理さえよければ十分いい状態で残されることを知った。
山下公園の北東の隅に石造りの洋風の小さな建物が目にとまった。小振りな建物ながら意匠が実にすばらしい。とくに天井に描かれたグラスーモザイクの草花模様が絶品である。柱には、次のように陰刻されていた。これは、「インド水塔」と呼ばれ、一九二三年九月一日の震災でなくなった同胞を偲んで、在留インド人が横浜市に寄贈したものである、という。竣工は、昭和一四年一二月。工事費は、二万円。現在のお金に換算すると約二〇〇〇万円といわれるが、人件費の値上がりや意匠の精巧さを考えると、現在ではとうていできる金額ではない。色の美しさは、残念ながらここでは表現できないが、一見に値する構造物とおすすめしたい。
前述した前島康彦は次のように書いている。「復興公園は、そのほとんどが原形を失ってしまった。大正末昭和初期の日本の公共造園のパターンの模範として、たとえIケ所でもよいから原型をなすものを残したい」山下公園は、道路側に高架鉄道が入り込んだとはいえ、大噴水のある中央の大パーゴラから西半分はかろうじて当初の配置形態が見られる。遺構も残り近代の公園を味わえる貴重な公園になっている。
「赤門」といえば東京大学の本郷口通用門の通称だが、「赤水門」は北区赤羽にある岩淵水門のこと。水門のゲートが赤く塗られているので、地元の人から親しみを込めてこうよばれる。岩淵水門で荒川から分流する隅田川は、川幅から考えると荒川の支川のようにみえるが元をたどれば隅田川が荒川の本流であった。(さらにさかのぽれば、利根川の本流である。)それまで千住大橋より下流を隅田川とよんでいたが、岩淵水門が完成すると、それより下流を隅田川とよぶようになった。また荒川放水路が「荒川」とよばれるようになったのは、戦後のことである。
戦前の大規模土木工事は、いくつか知られているが、荒川放水路工事もその中のひとつである。明治四四年からはじめられた荒川放水路工事は、まる二〇年かかり、明治・大正・昭和の三代にわたった。昭和五年の竣工。工事費は三一五〇万円。このような現場を担当する人は、二ヵ所を終えたところで定年を迎えることになる。
関東大震災後の復興事業や戦後の戦災復興事業およびオリンピック関連事業が、東京の都市基盤をつくったといわれるが、このような都市基盤を根本的に支えているのは、荒川放水路であることは意外に知られていない。隅田川を埋め立て、わが国最初のリバーサイドーパークである隅田公園ができたのも、荒川放水路のおかげである。関東大震災後、江東などの下町は工業地域として発展するが、それが可能になったのも荒川放水路が完成して、洪水の心配がなくなったからだ。ここでは、まず帝都東京の発展をささえた荒川放水路の成り立ちから話を進める。
山下公園の北東の隅に石造りの洋風の小さな建物が目にとまった。小振りな建物ながら意匠が実にすばらしい。とくに天井に描かれたグラスーモザイクの草花模様が絶品である。柱には、次のように陰刻されていた。これは、「インド水塔」と呼ばれ、一九二三年九月一日の震災でなくなった同胞を偲んで、在留インド人が横浜市に寄贈したものである、という。竣工は、昭和一四年一二月。工事費は、二万円。現在のお金に換算すると約二〇〇〇万円といわれるが、人件費の値上がりや意匠の精巧さを考えると、現在ではとうていできる金額ではない。色の美しさは、残念ながらここでは表現できないが、一見に値する構造物とおすすめしたい。
前述した前島康彦は次のように書いている。「復興公園は、そのほとんどが原形を失ってしまった。大正末昭和初期の日本の公共造園のパターンの模範として、たとえIケ所でもよいから原型をなすものを残したい」山下公園は、道路側に高架鉄道が入り込んだとはいえ、大噴水のある中央の大パーゴラから西半分はかろうじて当初の配置形態が見られる。遺構も残り近代の公園を味わえる貴重な公園になっている。
「赤門」といえば東京大学の本郷口通用門の通称だが、「赤水門」は北区赤羽にある岩淵水門のこと。水門のゲートが赤く塗られているので、地元の人から親しみを込めてこうよばれる。岩淵水門で荒川から分流する隅田川は、川幅から考えると荒川の支川のようにみえるが元をたどれば隅田川が荒川の本流であった。(さらにさかのぽれば、利根川の本流である。)それまで千住大橋より下流を隅田川とよんでいたが、岩淵水門が完成すると、それより下流を隅田川とよぶようになった。また荒川放水路が「荒川」とよばれるようになったのは、戦後のことである。
戦前の大規模土木工事は、いくつか知られているが、荒川放水路工事もその中のひとつである。明治四四年からはじめられた荒川放水路工事は、まる二〇年かかり、明治・大正・昭和の三代にわたった。昭和五年の竣工。工事費は三一五〇万円。このような現場を担当する人は、二ヵ所を終えたところで定年を迎えることになる。
関東大震災後の復興事業や戦後の戦災復興事業およびオリンピック関連事業が、東京の都市基盤をつくったといわれるが、このような都市基盤を根本的に支えているのは、荒川放水路であることは意外に知られていない。隅田川を埋め立て、わが国最初のリバーサイドーパークである隅田公園ができたのも、荒川放水路のおかげである。関東大震災後、江東などの下町は工業地域として発展するが、それが可能になったのも荒川放水路が完成して、洪水の心配がなくなったからだ。ここでは、まず帝都東京の発展をささえた荒川放水路の成り立ちから話を進める。
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