一九三六年になっても金本位制に固執した第四グループのオランダ、フランスは、スペインと地理的に近いにもかかわらず、ひどいデフレに陥り、なかなか回復しませんでした。「大恐慌論文集」では、物価だけでなく、生産活動など他の経済指数についても、金本位制との関連性を示しています。どこの国でも、大恐慌のときには、物価と生産活動に強い相関が見られます(日本は物価の下落にもかかわらず生産の落ち込みが少ない、例外的な存在です)。そして、物価の下落も、生産活動の落ち込みの程度やその後の回復も、やはり金本位制からの離脱時期によって決まっていたのです。
一国の歴史だけだと、それぞれの国の事情などもあってなかなか本質がみえません。しかし、国際比較アプローチの観点からみると、問題の本質が浮かび上がってきます。しかも、国際比較は客観的なデータ分析によって行われているので、きわめて説得的です。こうした国際比較重視の大恐慌研究は、アイゲングリーンら(カリフォルニア大学)によって一九八〇年代半ばから始められました。彼は、この分野で重要な貢献をしたテミン(マサチューセッツ工科大学)とともに「大恐慌論文集」に書評を寄せ、バーナンキの貢献を高く評価しています。
また、この分野で重要な貢献をしたクリスティーナーローマー(カリフォルニア大学)は、次期CEA(経済諮問委員会)委員長に内定しました。アメリカの底力をみた気がします。これで、アメリカの次期政権は、大不況シフトになったといえます。一九二九年のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する大恐慌は、近代経済史上最大の出来事です。一九三六年に発表されたケインズの「一般理論」を持ち出すまでもなく、そもそもマクロ経済学(一つの国の経済全体を扱う経済学。適切な経済指標とは何か、望ましい経済政策とは何かという考察を行います)自体が、大恐慌によって生み出されたものです。大恐慌を説明する学説は、数多くあります。
一九二〇年代のバブル崩壊と、その結果としての消費・投資の落ち込み、銀行危機による流動性(現金)不足、各国の保護主義による縮小均衡、恐慌による心理パニックなどなど。その中でも、長い間大恐慌研究の中心課題だったのが金融政策の役割についてです。アメリカの歴史を見ても、貨幣供給と物価変動や生産水準が、強い相関を示していることはわかっていました。問題は、何か原因で、何か結果であるかだったのです。一九七六年にノーベル経済学賞を受賞したフリードマンは、一九六〇年代中頃、貨幣供給が過少になって物価の下落と生産水準の低下を招き、大恐慌を引き起こしたと主張しました。要は、金融政策の誤りが大恐慌の原因だったというわけです。
その一方、貨幣量の減少は実体経済活動の結果にすぎない、という反論もあり、アメリカのみの研究では決定的な答えはなかなかみいだせませんでした。この論争に決着をつけたのが、前述した、一九八〇年代半ばのアイゲングリーンに始まりバーナンキが発展させた国際比較アプローチでした。この国際比較アプローチは、大恐慌期の金融政策が金本位制という外生的要因によって規定され、その金本位制に対する各国のスタンスによって、各国の実体経済のパフォーマンスが影響されていたことを証明しました。この意味で、金融政策が大恐慌の原因だったのです。この研究を突破口として明らかになったことは数多くあります。
たとえば、なぜ各国ともに金本位制に固執したのでしょうか。その答えは意外に単純で、各国の政策担当者が「金本位制=経済の繁栄」という幻想をもっていたからです。この幻想は、第一次大戦前には金本位制によって世界経済が繁栄したことから生まれました。しかし、第一次大戦後は、経済発展に伴う金が不足したこと、第一次大戦を経て、覇権がイギリスからアメリカへ移行しましたが、黒字国であるアメリカに覇権国の自覚がなく、緊縮的な金融政策をとったために、国際的な貨幣供給の減少が生じたことなどが、世界的な大恐慌につながっていったのです。先ほど触れた、次期CEA委員長のローマーは、一九三〇年代のアメリカの大恐慌について、財政政策ではなく金融政策の効果によって脱出できたという有名な論文を書いています。
2015年10月16日金曜日
2015年9月16日水曜日
定年制の現実的な意味
しかしながらこの年齢層の労働者を果して高齢者として壮年層と区別することが適切かどうかには疑問が残る。日本の企業の定年制の歴史をひもといて見ると、それは明治三〇年代にまで遡る。財閥系の大企業で五五歳を定年と定めたという記録がある。しかしこの頃の日本は、人々の平均寿命は五〇歳にまで達していない社会だったのである。つまり、企業に五五歳まで勤め上げるというのは非常に珍しい例で、古稀の祝いと同じように赤飯を炊いて祝い、企業は永年勤続者として表彰したのである。
定年制の現実的な意味がガラッと変わってしまったのは第二次大戦後である。第二次大戦直後の日本人の男子の平均寿命は五一歳だった。ところが一九五〇年代から六〇年代の二〇年間に平均寿命は男女ともに飛躍的に伸びて、一九六〇年代末には男子は七〇歳を超えた。いいかえれば日本人はこの二〇年間に事実上全く年齢をとらなかったといっても良いような社会的変化を経験したのである。
その結果、かつては永年の生存と勤続の表彰としての意味を持っていた定年が、まだ働ける人々にやめてもらう一種の誠首のような意味を持つようになってしまったのである。一九七〇年代から日本の人口の高齢化が急速に進みはじめたのを受けて政府が音頭をとり定年制の延長に努力した結果、今日では大半の企業が定年年齢を五五歳ではなく六〇歳に定めるようになっている。
しかし、それでも日本人の寿命の大幅な伸びにくらべればそれはわずかな変化でしかない。日本人の寿命が戦後二〇年以上も延びたという事は、その一部には幼児死亡率が低下した事による統計的な効果が含まれているとはいえ、やはり多くの日本人が年をとっても元気でくらしているという事にほかならない。
印象的に言えば、今の六〇歳の人は昔なら四〇歳くらいの人の体力や元気があると言ってもよいだろう。そのように考えるならば高齢化は経済活力の低下であると考える必要はなく、これらの人々の人的資源をいかに活用するかによって日本の経済社会の可能性が大きく変わってくるという事である。
定年制の現実的な意味がガラッと変わってしまったのは第二次大戦後である。第二次大戦直後の日本人の男子の平均寿命は五一歳だった。ところが一九五〇年代から六〇年代の二〇年間に平均寿命は男女ともに飛躍的に伸びて、一九六〇年代末には男子は七〇歳を超えた。いいかえれば日本人はこの二〇年間に事実上全く年齢をとらなかったといっても良いような社会的変化を経験したのである。
その結果、かつては永年の生存と勤続の表彰としての意味を持っていた定年が、まだ働ける人々にやめてもらう一種の誠首のような意味を持つようになってしまったのである。一九七〇年代から日本の人口の高齢化が急速に進みはじめたのを受けて政府が音頭をとり定年制の延長に努力した結果、今日では大半の企業が定年年齢を五五歳ではなく六〇歳に定めるようになっている。
しかし、それでも日本人の寿命の大幅な伸びにくらべればそれはわずかな変化でしかない。日本人の寿命が戦後二〇年以上も延びたという事は、その一部には幼児死亡率が低下した事による統計的な効果が含まれているとはいえ、やはり多くの日本人が年をとっても元気でくらしているという事にほかならない。
印象的に言えば、今の六〇歳の人は昔なら四〇歳くらいの人の体力や元気があると言ってもよいだろう。そのように考えるならば高齢化は経済活力の低下であると考える必要はなく、これらの人々の人的資源をいかに活用するかによって日本の経済社会の可能性が大きく変わってくるという事である。
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