2014年5月23日金曜日

東アジアの経済的ダイナミズム

東アジアは、史上稀にみる経済的興隆をつづけている。そしてこの事実は、実はアメリカが刈り取るべきビジネスーチャンスが東アジアに大きな規模で生まれたことを意味している。東アジアがアメリカに対してもつ最大の「バーゲニングーポジション」(交渉力)が、これである。さいわいなことにクリントン政権は、みずからの再生のためには東アジアの経済的ダイナミズムからアメリカが孤立してはならないということに、おくればせながら、しかし確実に気づいたようである。人権外交と最恵国待遇(MFN)供与を「分離」して中国に対応しようというのは、そのあらわれであろう。

中国やベトナムという新しい経済的ライバルにアメリカの経済力をいかに導入し、その経済力にふさわしい「フルーツ」をアメリカにいかに与えていくか。そうして東アジアが自国にとって「死活的重要性」をもち、したがってなんとしてでも守らなければならない地域であることをアメリカに自覚させるより他に、東アジアの力の空白を埋める手だてはない。

利害が錯綜してその「調整」など生なかなことでは不可能な一八もの国からなるフォーラムで安全保障問題をやりとりして、東アジアは何の「利」がえられるというのであろうか。地域安定のためのスキームが不要だといっているのではない。その前になすべき重要にして厳然たる課題が存在しているのではないか、といいたいのである。

東アジアを取りまく巨大な中国、ロシア、そして北朝鮮はすべて「過渡期」のなかにある。過渡期とは、「長期的な国際関係再編成の時期ではない。」(『国際政治の見方』新潮社、一九九四年)私もつくずくそう思う。ASEANのようなおのずからなる信頼醸成の組織をつくりあげた国ぐにが、相互に「対話にもとづく地域安全保障」を求めるのには大いなる意味があろう。しかし、その枠をいまの時点でこえるのが賢明だとは考えられない。

2014年5月3日土曜日

中国の市場経済化

軍部・政治エリートを背後にもつ権威主義的な経済官僚テクノクラート主導の開発戦略を、民主主義や人権を軽んじた「開発独裁」といったマイナスーイメージの濃厚な用語法でくるみ上げるのは正当ではない。アジア諸国がおかれた歴史的条件下で、なお急速な工業化を図らねばならなかった以上、他にいかなる選択肢がありえたというのであろうか。

リー・クアンユーは、日本における最近のスピーチにおいて、「民主主義と人権は、たしかに価値ある理想であるが、真の目標は『よい政府』にあることを明白にしておかなければならない。……すなわち、清廉で公正な政府、能率的な政府、人民の面倒をよくみる政府であるかどうか。国民が生産的な生活を送れるように、よく教育され、訓練された秩序と安定性のある社会であるのかどうか。それが基準たるべきなのです」(『諸君』一九九三年九月号)と語った。

東アジアの文脈において、今日の経済発展のありようを眺めるならば、この発言は実にまっとうな常識を素直にいいあらわしたものだ、というべきであろう。東アジアの経済発展を論じるに際して、おそらく最大のテーマは、あの巨大な社会主義中国が新たに「市場経済化」への道を選択し、それが奏功して超高成長の過程に入っているという事実であろう。

中国の市場経済化は、農業の改革にはじまり、その成功が郷鎮企業を群生させた。郷鎮企業は、農村経済を大きく活性化させるとともに、中国工業化における一大勢力となった。これに個人・私営企業、さらには外資系企業が加わって、国営部門は、しだいに中国経済に占めるそのプレゼンスを縮小しつつある。

長らく中国の社会主義計画経済の中枢に位置してきた国営企業の力が弱まり、計画経済の枠外に生まれた多様な経済主体が中国の市場経済化をうながし、中国経済の成長を牽引する主勢力となってきたのである(中国の国営企業は一九九三年三月の憲法改正により国有企業と呼ばれるようになった。「所有と経営の分離」への意向がここに反映されている。