2014年12月17日水曜日

失われる「海外出動はしない」の原点

「今後の課題は、陸自も米軍同様、「戦うように訓練し、訓練したように戦う」ことのできる訓練環境の整備が重要」(『朝雲』二〇〇四年七月一日付)である。ここではもう「戦う」ことこそが目標とされる。「人道復興支援」とは別の意図、すなわち「海外戦闘の準備」にそなえる機会、そのための訓練の場として、イラク体験を活用すべきだと、そう受けとめられている。二〇〇四年一一月、イラク任務に第四次派遣隊として出発する陸自・第六師団第二〇普通科連隊の指揮官福田一佐に、元東北方面総監の太田陸将から、「千人針」が贈呈された。この記事も『朝雲』(二〇〇四年一一月一一日付)に出ている。「千人針」とは、『広辞苑』によると「一片の布に千人の女が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作り、出征将兵の武運長久・安泰を祈願して贈ったもの。

日清・日露戦争の頃始まり、初めは「虎は千里走って千里をもどる」の言い伝えから寅年生れの女千人の手になったものという」とある。弾よけの腹巻を巻いて海外出征そんな雰囲気が伝わってくる。イラク派遣とは戦闘や戦死をともなう任務だと覚悟せよ、退役陸将は、隊員や家族に、そういい聞かせたかったのだろうか。送り出すほうも送られる側も殺気だってきた。「気分はもう戦争」といった感じさえする。

二〇〇五年、海上自衛隊・呉地方総監部が配布したカレンダーに「維新元年 海上自衛隊」の文字がおどった。インターネットで閲覧できる海上自衛隊のホームページにも自衛艦旗(旧海軍の軍艦旗でもある)とならべ「維新元年」の文字が記されていた。なにを「維新=体制一新」するつもりかさだかでない。だが、一九三〇年代の軍ファシズム運動が「昭和維新」を旗じるしに軍部独裁にいたったことはよく知られる事実だ。「平成の自衛隊」も、その維新を声に出しはじめたのである。憲法改正=自衛軍創設を待ちのぞむ自衛隊の意欲表明、とみるべきなのか。ちなみに、この年一一月には自民党の「新憲法草案」が発表されている。

そもそも、と振りかえれば、自衛隊に「海外出動」などなかった。そのような任務など「ありえない」とされていた。防衛省への移行にともない二〇〇六年に改正されるまで自衛隊法第三条は、「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする」と規定し、任務を「外部からの侵略阻止」=国土防衛のみとしてきた。それが「自衛隊は合憲である」とする政府解釈のよりどころであった。国家「正当防衛権」の最後のとりで、「専守防衛」に徹する最小限の実力、だから憲法九条の下でも許されるという理屈である。

加えて、「国会決議」によっても「海外出動はできない」とはっきり確認された。「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」がそれだ。自衛隊法が成立した一九五四年六月二日の参議院本会議で、付帯決議として採択された。「本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動はこれを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する。(拍手)」この決議に木村篤太郎初代防衛庁長官は、こう答えた。「申すまでもなく自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接並びに間接の侵略に対して我が国を防衛することを任務とするものでありまして、海外派遣というような目的は持っていないのであります。従いまして、只今の決議の趣旨は、十分これを尊重する所存でございます。」

2014年11月17日月曜日

日本人の権利意識の有無

「無理が通れば道理が引っ込む」のことわざ通り、裸のエゴが既成事実を作り上げているケースがあちこちにあります。その既成事実によって、侵害された権利がなかなか守られません。裏返して言うなら、他人の権利を侵害した者の責任がほとんど追及されてこなかったことこそが、日本における問題でしょう。

そもそも「権利かおる」ということの実体は、既成事実であってもそれをひっくり返す力があってこそのものです。しかし日本では、そういう力はなかなか発揮されません。権利といっても、それを実現するための手続もあって初めて意味があるわけで、幻のような「権利まがい」がいくらあったところで、あまり意味がないのです。

どういうわけか日本では、あまり意味のない権利であっても立派に保障されているような錯覚をさせられ、「権利」はとても高らかに謳われます。ところが、「それでは、一体何かできるの?」と訊くと、とたんにシーンとしてしまいます。その権利なるものを行使した人(手続を使った人)など、ほとんどいなかったりします。そうなって初めて、権利など「絵に描いた餅」だということが分かります。

実際には、権利が行使されるのではなく、マスコミなどの「世間の裁き」によって、のみ「政治家は悪い」「あの企業は悪くない」といった評価が下されるだけであったりします。それで国民がうまく編されて「権利かおる」と錯覚し、満足してくれているとしたら、こんなに政治のやりやすい国はないでしょう。

2014年10月16日木曜日

家族割引やグループ割引の要素をもっている

経済学の基礎理論の有効性を信じ、こうして経済学の啓蒙書を書いているという意味では、市場原理主義者の筆者は、待ち時間節約チケ。トに関する限り、おカネで済ませてくれるUSTJ方式のほうが断然好きなのです。しかし、TDLも好きですし、子供を連れて行くとなれば、毎回必死に走り回って、ファストパスをとることになります。取近は慣れてきましたから、あれこれ考えて効率よくファーストパスをとることが楽しくなってきました。TDLやTDSのように、無料で待ち時間節約チケット(ファストパス)が手に入るシステムだと、当然のように、ファストパス発券機の前にも行列ができます。特に人気が高いアトラクションでは、ファストパス発券機に並ぶ行列で30分以ト待だされることもあり、並ぶタイミングも重要で、おまけに発券機はあちこちにありますから、まさに走り回ってとりに行くことになります。

混雑する日には、ポップコーンを買うのにも、レストランで席を確保するのにも、かなり長い行列に並ぶしかなく、ファストパスの取得と合わせて、かなりの時間と労力を要求されます。筆者のように肥満で運動不足の体には、こういったコストがかなり負担になるわけです。じつはこの点も、価格戦略のひとつとして解釈することができます。実際にTDLがそれを意図しているかどうかは、よくわかりません。しかし結論からいえば、「家族やグループに対する割引」の効果をもちます。ファストパスでもポップコーンでもレストランでも、基本的に、行列には家族のうちひとりだけが並べばよく、多人数のグループでも、やはりひとりだけが並べばいい。わが家では、それはわたしの役割と決まっています。毎回、TDLで効率よく遊ぶためのノウハウを蓄積しているのは筆者だけなので、どうしても固定化してしまうのです(どこの家族でも、誰かひとりがこのパターンに陥りやすいのだろうと想像しています)。

そうして並んでいると、複数の家族が一緒に来ているような多人数のグループが、うまく分担してとても効率よく並んでいるのを、ときどきみかけてうらやましく感じます。7人のグループでひとりだけが並べば、単独客が自分ですべてやるのと比べて、ファストパス取得コストは7分の1になります。4人家族のひとりが並んでも、取得コストを4分の1にできます。力丿プルの場合はどうかと思って、何人かの若者にたずねたところ、どちらかひとりが並ぶのがふつうだと口を揃えていました。東京圏以外で質問した結果ですから、わざわざTDLまで行く以上は効率よく遊びたい、という意識が強かったのは当然といえます。力ップルの片方だけが並べば、ファストパス取得コストは2分の1になりますから。つまり、TDL・TDSのファストパスのシステムは、家族割引やグループ割引の要素をもっています。

大型テーマパークに限らず、まとまった人数で来てくれる客を優遇するのは、サービス業としては自然な対応で、実際によくみられます。誰かを誘ってきてくれれば、もっとお得に楽しめますよとアピールして、来客を増やしたいわけです。そう考えると、ファストパスを無料にして、しかし家族やグループ全員のファストパスを、ひとりが並べば取得できるようにしているTDL・TDSのやり方にも、やはり合理性があるのです。理論的には、しばらくは高い人気を維持するはずの新しいアトラクションだけを。期間限定で有料にして、混雑緩和も狙いながら、利益を増やすという価格戦略も十分に有力です。TDLやUSJがそうしないのは、すべてのアトラクションを無料にするという原則と待ち時間節約チケットを、全体的な価格戦略のなかにうまく組み込んでいるから、その枠組みを変えたくないのでしょう。

すでに述べたように、最初に有料の入場料金をとったあとで、アトラクションを無料にするやり方は、本書で定義した無料ビジネスにはふくまれません。しかし、アトラクション無料は人気アトラクションでの混雑を引き起こしますから、無料ビジネスの弊害を考えるうえで、とても参考になります。この視点でTDLとUSJの対照的なやり方を検討してみると、それぞれ巧妙な方法で無料による混雑を逆用していることがわかりました。どちらも全体としての価格戦略がよく練れているというのが、私の感想です。また。無料によって生じる混雑は、企業がうまくくふうすれば。逆用して利益につなげることもできると、USJが教えてくれています。

2014年9月16日火曜日

連立政権と租税特別措置

もちろん、以上は各時代ごとの主たる動きであって、従来からの細々した租税特別措置が姿を消しだのではない。のちにもまた述べるが、公共事業のなかでも伝統的に大きな位置を占めてきた道路事業の財源である軽油取引税や揮発油税の税率改定をめぐって、道路族とトラック運送業者などをバックにする商工族とのあいたで争いが繰り返されているように、租税特別措置はどの時代においても、きわめて裾野の広いものであり続けた。

ただし八〇年代にみられる従来と異なる動きは、深刻な歳入危機によって、租税特別措置の内容が縮小していることである。八〇年代後半以降、「租税特別措置の整理合理化」がさすがに歳入政策のテーマとされ、各年度ともに、最も基礎的な小項目で数えて五〇から八〇項目が、対象としてあげられている。それらのほとんどは、租税特別措置そのものを廃止するのではなく、たとえば原価償却率の引き下げ、特別償却制度の対象の縮小などである。

先に『税制改正一覧表』に要望を上せる団体の増加をみた。自民党政権は、これらに応えて集票装置に組み込んだものの、その末期には財政危機とともに身動きの取れなくなった「巨象」のような状況に、陥ったといえるであろうか。いずれにせよ、歳入予算にたいする政治の介入は、税制の体系を歪めざるをえないが、「整理合理化」のタテマエのもとに小手先の修正を余儀なくされることで、ますます混乱していった。

細川連立政権の登場によって自民党が最も影響を受けたのは、租税特別措置の決定であったかもしれない。九四年度予算の編成にあたって自民党は、『税制改正一覧表』の取りまとめを中止した。多様な利益集団の側も、組織としての自民党への租税特別措置に関する要望提出に消極的となった。このことは、補助金を中心とする歳出予算にもまして、租税特別措置への影響力行使が、単独政権ゆえに可能であったことを意味していよう、いいかえるならば、税制なる技術体系の細部に踏み込んだ政策決定は、たんに知識のレベルを越えて官僚制にたいする強大な影響力行使があってはじめて可能なのである。

細川連立政権のもとでは、各団体から寄せられた税制改正要望は、連立与党の代表者からなる政策幹事会において審査され、さらに連立与党の政務幹事会との合同会議において与党の税制改正要綱が決定されている。しかし、ここでは、がっての自民党税調のような要望の細部にわたる検討は行われなかった。与党各党は、旧新生党グループを除いて、そもそも租税特別措置の内容決定についての政治的トレーニングを積んでいない。また背後の利益を異にしている。連立与党間の利害調整を押し進めることは、自民党内の族議員間の調整よりもはるかに困難であった。こうして、行き着くところは、租税特別措置にたいする政治的リーダーシとフの発揮を放棄し、大蔵官僚制に依存することであった。

2014年8月21日木曜日

発行者の民事責任

不実のディスクロージャーについて関係者に民事責任を負わせるのは、①それによって投資家が被った損害の回復を図るという意味と、②関係者に注意を払わせて不実記載を抑止する意味とがあります。刑事責任は原則として故意がなければ科せられないため、関係者は不実記載を知らなければ責任を負わないのに対し、民事責任は過失があれば課せられるため、関係者は不実記載がなされないよう注意を払わなければなりません。したがって、理論的には、民事責任のほうが不実記載の抑止効果は高いといえます。

有価証券報告書等の継続開示書類に虚偽または誤解を生じさせる記載(不実記載)があった場合、従来、発行者に特別の民事責任を課す条文はありませんでした。平成16年の改正では、投資家による民事責任の追及を通じて市場監視機能を強化するという目的で、発行者に特別の民事責任を負わせる条文(21条の2)が新設されました。この規定によると、発行者は、有価証券報告書・半期報告書・四半期報告書・内部統制報告書に不実記載があった場合、有価証券を取得した者に対し不実記載により生じた損害を賠償する責任を負います。

この規定は、①発行者が無過失であったことを立証しても責任を免れることができない点(無過失責任)、および②一定の投資家について、不実記載が発覚した時点の前後の株価を基準として算定される額が損害額と推定される点で、責任を追及する投資家側に有利になっています。ただし、発行者の無過失責任を追及できるのは、投資家が証券取得のために支払った額から、請求時の証券の市場価額(市場価額がないときは処分推定価額)または証券の処分価額(請求時にすでに証券を処分していた場合)を差し引いた額が限度となります。損害の推定規定を利用できるのは、不実記載の事実が公表された日(公表日)前1年以内に当該証券を取得し、公表日において引き続き当該証券を所有する者に限られ、推定損害額とは、公表日前1ヵ月間の市場価額(市場価額がないときは処分推定価額)の平均額から公表日後1ヵ月間の市場価額(市場価額がないときは処分推定価額)の平均額を差し引いた額とされています。

この額はあくまでも損害の推定額ですのでヽ市場価額の下落が不実記載以外の事情により生じたことを発行者が立証したときは損害賠償額が減額され、推定額以上の損害を被ったことを投資家が立証したときは立証した損害額につき賠償が与えられることになります。たとえば、投資家が1株1000円で1000株購入した銘柄について、粉飾決算の発覚によって株価が1月平均で800円から300円に下落し、請求時には1株400円であった場合、発行者が50万円中20万円は不実記載以外の事情により生じたことを立証したときは、賠償額は30万円となります。

ただし、現実の損失70万円と請求限度額である60万円との差額については、発行者に故意または過失があったことを証明して、一般不法行為(民法709条)に基づく損害賠償請求をすることができると考えられます。損害推定規定がうまく機能するためには、「公表日」が適切に定められなければなりません。法律上、公表日とは、不実記載に係る事実(真実の情報)について、発行者または発行者に対し法令に基づく権限を有する者によって多数の者の知りうる状態に置く措置がとられたことをいうとされています(21条の2第3項)。

2014年7月25日金曜日

ドル離れを始めるヨーロッパ

さらに重要なことは、国際協調体制を維持する誘因が不十分なことである。確かに国際通貨市場は変動相場制度に移ったけれども、現実にドルに対してペッダしている国の数は非常に多い。ドルにペッダしている国は、まだ固定相場制なのである。すなわち、ドルは円とマルクを中心とするヨーロッパ通貨に対しては変動相場制になったが、他のほとんどの国の通貨はドルを基軸通貨とし、ベッグしようとしている。

ともかく、途上国や旧東ヨーロッパの国々はほとんどがドルに対して、常に切下げを強いられる状況にある。このことは世界の大多数の国に対してドルはいまだ強いことを意味しており、実物面ではアメリカにとってヨーロッパ通貨、円に対するドルの下落は深刻なものではないことを意味している。もっとも、連邦財政を維持するための国債発行の資金を賄うためには、これらの通貨に対する安定は不可欠であり、ドル価値の維持に強い関心を持つのは当然である。しかし、これが財政金融政策の基本を左右することにはならない。経常収支赤字だから、ドルが下がるからといってアメリカ国民、が増税を認めてくれるわけではない。

一方、EUも同様に、EU内の相対的な為替レートの安定がもっとも重要な問題であり、国際的な安定はそれほど重要でなト方向にある。先に述べたように、ヨーロッパのめざしている新しい通貨制度はヨーロッパ単一通貨である。この結果、ヨーロッパがドルに対して強い関心を持だなくなると、円ドル・マルクという国際通貨の安定に対して関心を持つのは日本だけでしかなくなる。

巨額の経常収支赤字を続けるアメリカが現在の経済政策の基本を変えなければ為替市場の混乱は収まらず、日本にとって急速な円高が起こる可能性は強くなる。また、一方では、日本も経常収支黒字に関する構造的な問題を解決しない限り、自己矛盾を続けることになる。プレトンウッズ体制の崩壊後、大きな混乱を作っていたのはともかくドルであった。しかしながら、ドルの不安定の問題と他の通貨との不安定の問題は必ずしも同じではない。

とくにヨーロッパ各国にとって貿易・資本取引関係は、EU地域内のもののウェイトが大きい。そこで、世界的な為替レートの変動はや打をえないとしても、経済の結びっきの強い通貨間での混乱を除去するために、特定の地域内での固定相場制への移行が求められた。ヨーロッパ通貨間の為替レートの固定化を狙ったEMS(ヨーロッパ通貨制度)が一九七九年に創設される。ECは域内の貿易、資本の移動に関する障壁の除去の努力を行ってきたが、通貨が変動すれば当然、貿易、資本移動の障害になる。

2014年7月11日金曜日

国際的なクラウディングーアウト

ここからアメリカは日本に対する要求として内需拡大を主張する。すなわち、政府の財政赤字を拡大して民間の貯蓄を吸収すべきだ、とする。これは、公共投資を拡大して総投資をふやせ、ということである。日米構造協議の結果、一〇年間に四三〇兆円の公共事業を行うこととしたのもこの考え方によっていた。

ただ、この貯蓄投資。バランス論だけで経常収支問題を議論するのはやや粗雑すぎる。すなわち、このバランスは結果としての均衡式にすぎないのであり、このバランス式と国際的な資本移動を同時に考えねばならない。国内の投資の過小あるいは貯蓄の過大は国際的な資本取引の結果でありうる。すなわち、貯蓄投資。バランスは因果関係を示すものではなく、結果の関係であることに留意する必要がある。実際、図のように、アメリカの財政赤字と経常収支赤字の間、また、日本の財政赤字と経常収支黒字の間に強い相関があるようには見えない。

むしろ因果関係としては、通常考えられているのと逆のものであるかもしれない。もし、国際的な資本取引が完全に自由であるとすると、貯蓄投資バランスは資本取引の結果生まれている可能性もある。たとえば一九八〇年代以降の日本の貯蓄投資。バランスについて、次のような見方もできる。アメリカで財政赤字が拡大すると金利が上昇し、これによって日本からアメリカへ資金が流れ、このために日本国内でも金利が上昇して投資が減退し結果として投資が過小になることも起こる。

このような、国際的なクラウディングーアウト(追出し効果)もありうる。日本の投資不足が対外不均衡の原因であるというより、アメリカの国内の貯蓄過小が対外不均衡を生み、これと整合的になるために日本で投資が過小になっているという見方もできる。いずれにせよ、アメリカ国内で国内総投資が国内総貯蓄を大幅に超えたことが、わが国などからの資本流入を招き、これが経常収支赤字となったのである。今日のアメリカの膨大な経常収支赤字、日本の経常収支黒字の原因はまさにレーガンの政策そのものにあった。

このような議論は「小宮理論」として知られる(小宮隆太郎著『貿易黒字・赤字の経済学』東洋経済新報社、一九九四年を参照)。これは元東京大学教授で青山学院大学教授の小宮隆太郎氏が経常収支黒字は貯蓄と投資の差額なので、これを減らせとか増やせというような政策の問題ではないことを主張したものである。しかし、これは小宮理論というようなおおげさなものではなく、経済学者のごく常識にすぎない。

2014年6月26日木曜日

毒を垂れ流すテレビ

今年は七十九歳になる。私の年配の者があの太平洋戦争で、最も多く戦死したのだという。戦死した友人たちは、テレビを知らない。ビデオもファックスも、パソコンも、自動ドアもケイタイも知らない。インスタントラーメンなどというものも知らない。戦前にはなかったものが、いろいろ、挙げきれないほどある。時計は戦前もあったが、戦前の時計はゼンマイ仕掛けであった。飛行機もあるにはあったが、一般の人々が利用する空路などというものはなかった。

人工衛星が打ち上げられ、人工授精で人間が作られる。私のような旧式の人間は、とてもついて行けない。私は、パソコンもワープロもだめ、ファックスだけは利用しているが、ファックスどまりである。私の部屋にあるもので、戦前にはなかったものといえば、ファックスのほかには、テレビと小さな電気冷蔵庫と瞬間ガス湯沸し器だけだが、それでも私は、戦死しなかったおかげでこういうもののある生活をしているのだな、と思う。今、テレビのない世帯というのは、この国にどれぐらいあるのだろうか。

私かテレビで見るのは、ニュースとスポーツとドキュメントぐらいのものだ。他の番組は見ない。ワイドショーなどというのはもちろん、ドラマも見る気になれない。私は、テレビというのは、毒を垂れ流しているのではないかと思っている。そう思いながら多少は見ているわけで、テレビを知らずに死んだ友人たちに、見させてやりたかったな、とも思っているのだから、矛盾している。私の年配の者は、戦争で死なずに生き残った者も、今や病死する者が多いし、なおも生き残っている者も老化をかこっている。それでも、古希を過ぎて外国語を勉強している者がおり、ボランティアをしている者もいる。そうかと思うと、病院通いとテレビを見ることしかすることがないと言って過ごしている者もいる。

毎日、テレビばかり見ているという友人にきいてみた。「面白い番組があるかね」すると、「ない。つまらんものばかりだ。見ていると腹が立つものばかりだ」と言う。それなら、見なきやいいじゃないか、と思うが、見るのである。私は先般「週刊文春」が、NHKの「やんちゃくれ」という連続ドラマをこきおろしていたのを思い出して。きいてみた。「『やんちゃくれ』というの、見ているかね」「見ているよ、ひどいドラマだ」しかし、このドラマ、これまでの連続ドラマに較べると視聴率が低いが、それでも二千万人の人が見ているのだそうである。ひどいドラマだと言いながら見ている私の友人は、その二千万人の中の一人である。いずれにせよ、二千万人。テレビとは大したものだ。

2014年6月12日木曜日

抽象と経験の往復運動

さらに集団の社会的結合と、成員の不安とに関するこの理論の適用範囲は、宗派と自殺率との関係に止まるものではない。デュルケムはこの理論を「家族の結合」と「自殺率」との関係にも応用した。すなわち「独身者は既婚者より自殺率が高い」、また「子供のいない者は子供のいる者より自殺率が高い」という仮説を提出してこれを検証した。この場合「社会的結合」という概念は、「婚姻」「子供の有無」という作業定義に翻訳され、宗派と自殺率の関係とは異なる、新しい仮説を生み出したのである。

デュルケムが同一の理論から導き出した仮説は、これだけではなかった。デュルケムは自らが属したユダヤ人社会の自殺率にこの理論を適用した。当時のフランスでは既にユダヤ人は教育水準が高く、都会に集中し、かつ商業活動に従事する者が多かった。教育水準が高く、都会に住み、商業活動に従事するということは、いずれも自殺率の高い集団の特徴である。

それにもかかわらずデュルケムはユダヤ人の自殺率が、きわめて低いということを予測した。少数民族であったユダヤ人は、キリスト教社会で伝統的に除け者にされていた故に、きわめて結束の固い集団になっていたからである。そしてデュルケムの予測通り、ユダヤ人は教育水準が高く、都市に集中し、かつ商業活動に従事するという、自殺率を高めるような条件が重なっていたのにもかかわらず、彼らの自殺率は低かったのである。このように種々の異なる条件の下での検証の関門をくぐり抜けて、デュルケムの理論はその信頼度を高めたばかりでなく、その適用範囲の広さによって、普遍性の高い有用な理論としてその名声を高めることになった。

以上のデュルケムの研究が示すように、普遍性の高い理論は、一見相互に何の関係もないように見える経験的事実を、同一の原理で説明することができる。プロテスタントの方がカトリックより自殺率が高いという現象と、独身者の方が、既婚者より自殺率が高いという現象は、最初は相互になんの関係もないように思われるであろう。しかしこの相互になんの関係もないように思われる現象は、実は同じ理論から導き出された、二つの異なる仮説によって説明されるのである。

このように普遍性の高い理論は、種々の異なる現象を説明するための、一般的根拠を与えることができる。そこでわれわれは、経験的世界を理解するために、一般的な理論を使用しようと努力するのである。またそれだからこそ、できるだけ多くの経験的事実を説明できるような理論を、構築しようとするのである。それは抽象と経験との間を、往復するための基本的な方法に他ならない。

2014年5月23日金曜日

東アジアの経済的ダイナミズム

東アジアは、史上稀にみる経済的興隆をつづけている。そしてこの事実は、実はアメリカが刈り取るべきビジネスーチャンスが東アジアに大きな規模で生まれたことを意味している。東アジアがアメリカに対してもつ最大の「バーゲニングーポジション」(交渉力)が、これである。さいわいなことにクリントン政権は、みずからの再生のためには東アジアの経済的ダイナミズムからアメリカが孤立してはならないということに、おくればせながら、しかし確実に気づいたようである。人権外交と最恵国待遇(MFN)供与を「分離」して中国に対応しようというのは、そのあらわれであろう。

中国やベトナムという新しい経済的ライバルにアメリカの経済力をいかに導入し、その経済力にふさわしい「フルーツ」をアメリカにいかに与えていくか。そうして東アジアが自国にとって「死活的重要性」をもち、したがってなんとしてでも守らなければならない地域であることをアメリカに自覚させるより他に、東アジアの力の空白を埋める手だてはない。

利害が錯綜してその「調整」など生なかなことでは不可能な一八もの国からなるフォーラムで安全保障問題をやりとりして、東アジアは何の「利」がえられるというのであろうか。地域安定のためのスキームが不要だといっているのではない。その前になすべき重要にして厳然たる課題が存在しているのではないか、といいたいのである。

東アジアを取りまく巨大な中国、ロシア、そして北朝鮮はすべて「過渡期」のなかにある。過渡期とは、「長期的な国際関係再編成の時期ではない。」(『国際政治の見方』新潮社、一九九四年)私もつくずくそう思う。ASEANのようなおのずからなる信頼醸成の組織をつくりあげた国ぐにが、相互に「対話にもとづく地域安全保障」を求めるのには大いなる意味があろう。しかし、その枠をいまの時点でこえるのが賢明だとは考えられない。

2014年5月3日土曜日

中国の市場経済化

軍部・政治エリートを背後にもつ権威主義的な経済官僚テクノクラート主導の開発戦略を、民主主義や人権を軽んじた「開発独裁」といったマイナスーイメージの濃厚な用語法でくるみ上げるのは正当ではない。アジア諸国がおかれた歴史的条件下で、なお急速な工業化を図らねばならなかった以上、他にいかなる選択肢がありえたというのであろうか。

リー・クアンユーは、日本における最近のスピーチにおいて、「民主主義と人権は、たしかに価値ある理想であるが、真の目標は『よい政府』にあることを明白にしておかなければならない。……すなわち、清廉で公正な政府、能率的な政府、人民の面倒をよくみる政府であるかどうか。国民が生産的な生活を送れるように、よく教育され、訓練された秩序と安定性のある社会であるのかどうか。それが基準たるべきなのです」(『諸君』一九九三年九月号)と語った。

東アジアの文脈において、今日の経済発展のありようを眺めるならば、この発言は実にまっとうな常識を素直にいいあらわしたものだ、というべきであろう。東アジアの経済発展を論じるに際して、おそらく最大のテーマは、あの巨大な社会主義中国が新たに「市場経済化」への道を選択し、それが奏功して超高成長の過程に入っているという事実であろう。

中国の市場経済化は、農業の改革にはじまり、その成功が郷鎮企業を群生させた。郷鎮企業は、農村経済を大きく活性化させるとともに、中国工業化における一大勢力となった。これに個人・私営企業、さらには外資系企業が加わって、国営部門は、しだいに中国経済に占めるそのプレゼンスを縮小しつつある。

長らく中国の社会主義計画経済の中枢に位置してきた国営企業の力が弱まり、計画経済の枠外に生まれた多様な経済主体が中国の市場経済化をうながし、中国経済の成長を牽引する主勢力となってきたのである(中国の国営企業は一九九三年三月の憲法改正により国有企業と呼ばれるようになった。「所有と経営の分離」への意向がここに反映されている。

2014年4月17日木曜日

学生相談でどこまでできるか

甲南大学の助教授で、学生相談室のカウンセラーをされている高石恭子さんは、最近の学生相談そのもののあり方に疑問を呈しておられます。

「十一年前、私がある大学で学生相談にはじめてたずさわった当時、上司の先生からまず言われたのは、『学生相談は卒業をもって終わるもの。そのことを肝に銘じておくように』ということでした。河合先生の研究室で個人心理療法を学び、先輩たちの姿勢からも『出会ったクライエントとは一生寄り添うぐらいの覚悟で臨む』ことを当然のように受けとめてきた私には、上司の言葉はとても冷たく映ったものです。

たしかに、戦後アメリカから導入され、厚生補導の一環として発展してきたわが国の学生相談は、ユングやフロイト流の心理療法と違い、いまもアメリカの影響を強く受けているように思います。

活動の中心は、修学や進路のガイダンス、自己主張や対人関係のスキルの訓練など『短期的教育指導』で、長期的な心のケアが必要な学生は、どんどん外部の治療機関ヘリファー(紹介)していくという考え方です。

ただ、これは巷にセラピーを受けられる機関や個人クリニックがごまんとあるアメリカ都市部だから可能な話であって、日本人はそんなにドライに専門家が分業できる状況にはありません。最近問題になっている、神経症でも精神病でもない『人格障害』の学生を適切に引き受けてくれるリファー先は、さらに見つけることが困難です。

実際、現在の職場で年数を重ねてみて(これは私の会い方の要因も大きいかもしれませんが)、卒業と同時に学生相談室も卒業できる学生ばかりではないことと、その人たちへの継続的ケアの問題に直面しています。

学籍のない人へのボランティア的な対応には限界があります。また、就職超氷河期の現在、卒業後も研究生や科目等履修生といった身分で大学に残りつづけたり、就職してもやめて戻ってくる人がいます。今後は社会人編入などで、大学と社会を数年で還流する成人学生も徐々に増えてくるでしょう。