2013年12月25日水曜日

真つ先に超高齢社会になる日本

団塊の世代は自分たちで意思決定しなければいけない。まず、職場においては、自分たちはさっさと下の世代にポジションを譲り、会社にすがりつかない。あとでも触れる企業年金などは、率先して給付引き下げか解散に賛同する。選挙においては、たとえば、「大阪維新の会」の橋下徹大阪市長の政策アジェンダが、どちらかといえば若い世代寄りで、そこに彼の求心力があるのだとすれば、上の世代内で多数派をなす団塊の世代自身が、あえてその構造改革的な政策を支持したらどうだろう。橋下徹氏に国家経営者としてどれだけの資質があるのか、私にはわからない。ただ有権者が、より若い世代寄りのアジェンダ、より反既得権的なアジェンダを提示しているリーダーや政党に投票し続けることのインパクトは大きい。

二〇〇〇年代の小泉純一郎政権の構造改革路線は、少なくとも、上の世代が持つ既得権益を解放する方向だった。ところがその後、おそらく団塊の世代を中心に揺り戻しが起きて、構造改革路線はすっかり悪者にされてしまった。不幸なのは、「小泉改革=格差拡大」というイメージだけが繰り返し刷り込まれて、規制や既得権に切り込んでいく姿勢まで否定されてしまったことだ。その結果、民営化も労働市場の改革も不十分に終わった。気づいたときには、日本経済は沈滞し、活力が生じることもなく、いちばん弱い層である若年労働者に全部しわ寄せがいき、失業者を増やすことになった。

加えて、民主党政権は、格差拡大が市場原理や競争原理の行きすぎ、すなわち構造改革の行きすぎに起因するという、大間違いの診断に基づいて政策的な方向転換を加速してしまった。結果、政権交代から三年たっても若年層失業率も非正規雇用比率も上がり続け、格差拡大も止まらない。そもそも学者や評論家が期待するほど、政策的なイデオロギーが社会現象に大きな影響を与えることはない。社会のメガトレンドは、人口動態の変化や産業構造の変化といった、もっと構造的、現実的な条件変化から生まれるものなのだ。政治経済思想の代表選手である社会主義思想とて、もとを正せばすでに存在した社会現象の後付け説明原理にすぎない。それを無理に演緯するものだから、二〇世紀の人類に大変な惨禍をもたらすことになる。

ちなみに日本では格差を生み出したという評判の「新自由主義」や「市場原理主義」に至っては、欧米ではイデオロギーとしてほとんど認知さえされていない。日本で使われているのと同じ意味で広く一般的に使われている英語まともな学者やエコノミストの世界でめったに聞いたことがない。そんなものに世界の先進国共通の病である所得格差問題、世代間格差問題を生み出すほどの力はない。団塊の世代は、このような直近の教訓と歴史的教訓を踏まえ、自らがなした「構造改革潰し」を反省し、いまこそ若い世代の活力を甦らせる改革を支持すべきではないだろうか。くれぐれも自分たちが若いときに罹った思想的な麻疹をぶり返して、サヨク的思想を勢いづかせるようなことは慎んでもらいたい。

現在、世界の先進国では同じような問題が起きている。既得権をよりたくさん持っている上の世代と、既得権をほとんど持たない若い世代の間の対立が基本構図で、かつてのような左右のイデオロギー対立ではないことに注意したい。結論から言えば、リーマンショックで新自由主義(そういう思想が仮に存在したとしても)も破綻したし、社会民主主義も破綻している。日本人が好きな「北欧モデル」もピンチを迎えていて、たとえばスウェーデンでは失業者への給付と、準公務員的な雇用数の増加が国家財政の重い負担になりつつある。

2013年11月6日水曜日

首都の朝の風景

いかにもブータン的なのは、ティンプを見下ろす山腹に、高さ三〇メートルを超す大仏の建立が進んでいることであった。聞くところによれば、ブータンで最も僻地とされるクルテ地方でも、同じく三〇メートルを超す巨大なウギェンーグルーリンポチェ像の建立が着工されたとかことである。両者とも、信者たちの自発的な発願によるもので、すべて民間からの寄進によってまかなわれている。わたしは定宿としている小さなゲストハウスに投宿し、いつもの部屋に落ちついた。翌朝いつものように、市街地を一周する散歩に出かけた。六時には夜は明けているが、道路には車一台走っておらず、時折バス停に向かう人とすれ違う程度である。

あちこちに神々に捧げられるサン(松柏などの葉を焚いたもの)の白い煙が昇り、香ばしい香りが漂っている。道ばたには、あいかわらず野良犬が寝そべっておりヽ早起きの犬たちは路上を我が物顔に戯れ合っている第三代国王の発願により建立された巨大なメモリアルーチョルテン(仏塔だけが例外で、ここには五体投地(両膝・両肘・額を地につけて、尊者・仏像を拝すること)を繰り返す人、数珠をたぐりながら念仏を唱えチョルテンを右逍(仏像の周りを右回りにめぐること)する老若男女が跡を絶たない。この朝の静けさは、わたしが最初にブータンを訪れた一九七八年と何ら変わるところがない。

朝九時近くになると、首都はようやく活動を始める。何よりも中央政庁タシチョーゾンに向かう人たちの通勤ラッシュである。確かに車は増えた。しかし、赤ん坊をおんぶしたり、重い荷物を担いで、目抜き通りを歩いている人もまだまだたくさんいる。頻繁に行き交う車を横目に、野良犬はロータリー近くの路上に寝そべって動かず、車の方がよけて通ることになっている。警官が手信号で交通整理をしているIカ所を除いて、主要な交差点はすべて信号なしのロータリー方式であり、運転手が自ら状況を判断して、停車したり、譲ったり、進入したりして、さしたる渋滞もなくほぼスムーズに流れている。

例外的に数力所に横断歩道が印されているが、歩行者はそんなことにかまわず、車の切れ目を見計らって道を横切る。機械的な制御はいっさいなく、一律的な交通規則に従うのではなく、通行人と運転手がお互いに目と目を見合わせ、相互の合意と譲り合いによって成り立っている。車の数もまだまだ少なく、スピードもせいぜい時速二、三十キロメートルであるから機能するのであろうが、なんとも人間的である。行き交う人びとの中には、明らかにインド人、ネパール人とおぼしき顔も少なくなく、ブータンの民族構成、労働力事情を反映している。ブータン人の大半、そして学校に通う生徒たちの全員が、男はゴ、女はキラという民族衣装を着ており、ブータン様式で統一された建物と相まって、ブータン独特の雰囲気を醸し出している。

さらに、別に用があるわけではなさそうであるが、とにかく通りを行き交う僧侶たちの姿は、仏教が人々の生活に身近に密接に関わっていることを反映している。その僧衣のえび茶色、黄色は、民族衣装の明るい色と派手やかな柄とともに、ブータンの町に欠かせないもので、これらすべてがよく調和して通りを活気づけている。歩きながら携帯電話で通話している人もあるが、最も目につくのは、往来の中で立ち止まって、二人で向きあって、あるいは数人で車座をなして話し込んでいる人たちである。何をそんなに話すことがあるのかと思えるほど、長い立ち話にふける男女が多い。通りは、買い物のために通り過ぎるところでもなく、ウィンドウショッピングを楽しむところでもなく、なによりもれっきとした社交場である。


2013年8月28日水曜日

本土企業の下請けになっていく沖縄の建設業者

電柱を埋めると変圧器を設置するのが大変だというが、あんなものを地上に出しているのは日本ぐらいで、そんな屁理屈で反対するのは、電柱を立てることに何らかの利権がからんでいるからではないかと思わざるを得ない。もっとも、ここまで電柱を立ててしまうと、沖縄から電柱を撤去するのはほぼ不可能だろう。沖縄の公共工事だが、沖縄振興開発事業費は年々減らされているとはいえ、小泉政権でも平均して年間二五〇〇億円ほどが投入された。地方交付税とは別に、毎年これだけの予算が組まれ、そのほとんどが土木建築に割かれている。

小泉改革以降、全国的に公共事業は減らされたが、沖縄にこれだけの公共工事があることは、本土の土建業界にしても非常に魅力的だということで、本土の大手企業が沖縄の公共事業に手を伸ばしはじめ、いたるところで沖縄の企業を差し置いて、工事を奪い取る事態が起こっているという。開発振興事業ではないが、最近、おもろまちにできた合同庁舎の工事でも地元企業が閉め出された。具体的にどんな方法をとったのかは知らないが、たとえば入札資格に、公共工事の完工高を國場組の額より上に設定すれば、県内の業者はほとんど参加できなくなる。しばらく下請け、孫請けで仕事をもらっていたが、数年前から、それじゃ食べていけないと、地元企業が民間マンションに力を入れはじめた。これがおもろまちを中心としたマンションブームにつながっていく。ある業者はこう言って嘆いた。

「公共工事なら二、三割の利益を確保できるが、民間の工事だと数%しか残らないから、どこも自転車操業で大変です。おもろまちのタワーマンションなど、本土企業が主導だから、さらに利益幅が小さい。小さなパイに地元企業が群がっている構図ができ、もう沖縄の建設業界に未来はありませんね」民問工事も請け負うが、確実に利益があがっておいしいのはやはり沖縄振興開発事業による公共工事だそうだ。そのパイも本土企業にとられ、さらに小さくなっている。その沖縄振興開発予算も、今は二二〇〇億円と最盛期(四四〇〇億円)の半分だ。生き延びるためにも補助金は平等に分け合いたいと考えたのかどうか、〇五年六月、公正取引委員会によって大手建設会社の談合が摘発された。そして、特Aランク業者一三六社とAランク業者五五社の合計一九一社が、総額一〇九億円余の賠償金を請求された。

とまあ、ここまではよくある話だが、仰天するのはこの後である。沖縄県は、損害賠償請求権を放棄して、業者の賠償金を免除することを検討したのだ。賠償金の六割は国庫補助分だから、請求権を放棄すれば、県が業者に代わってその分を国に支払うことになる。実質的に、賠償金を県が肩代わりするという、とんでもない計画が立案された。今のところ、地元の新聞に書かれたせいで、とりあえず見送りになったが、この一事から、沖縄県と建設業者は骨がらみになっていることがよくわかる。もはや、運命共同体なのだ。米軍基地がなくなってもいいように、今から「脱基地経済」の準備をしておくべきだと書いたが、沖縄県だって考えてはいる。ところが、私には勘違いしているとしか思えない。

たとえば「島田懇談会事業」の予算で宜野座村にできた「かんなタラソ沖縄」。〇三年にオープンした海洋療法施設である。総工費二四億円の高級リゾートホテルを思わせる豪華な建物だ。また、オーケストラ用の音響設備などを誇る旧勝連町の「きむたかホール」。これも島田懇談会事業から二〇億円を出させてできた。先にも述べた国頭につくられた総事業費三七億円の「くにがみ球場」などのスポーツ施設もそうだ。いずれも米軍基地がなくなっても自立していけるようにとのシナリオのもとにできたと聞く。ところが、いずれも赤字の垂れ流し。バンガローやオートキャンプ場などを備えた東村の「つつじエコパーク」のように黒字になっているところもあるが、ごく少数だ。


2013年7月12日金曜日

嫌でも放射能とつきあっていかなければいけない

これだけ大勢の人が一斉に下山する時代は、長い日本の歴史の中でも一回もない。団塊の世代が、全員一斉に登山して、全員一斉に下山しようとしている。このように人口ピラミッドの上の分厚い層が一斉に下山を始めたら何か起きるか。下りるのは自然の摂理だからしかたないが、彼らはただ下山するわけではない。下りるときに、いろいろなものを捨て散らかしていく可能性がある。また食費もかかるし、病気や介護、さまざまなコストが必要になる。また、年を取っているから、身軽に下りられない。要するに、お金がかかるのだ。

実際の登山でも、登るときよりも、下りるときのほうが難しい。有名な登山家も、下りるときに遭難したケースが多いという。若い世代に負担をかけるな、登る人の邪魔をするな。現状では、団塊の世代の下山にかかるコストを、若い世代が補填する仕組みがつくられている。自力で下りてくれればいいのだが、いろいろな形でサポートしないと彼らはスムーズに下りられない。そのサポート代、具体的には現在の公的な年金制度や医療保険は、事実上、そのコストの大半は若い世代の保険料か税金で賄われる仕組みになっている。若い人たち二、三人で老人一人が下山するのをサポートしていくことになるのだ。しかも、平均寿命が延びた結果、下山するまで何十年も時間がかかるから、サポートしている側もどんどん年を取ってしまう。

そうなると、少なくとも支えている側の一人当たりの生産性をもっと上げていかないと、支えられなくなってくる。働いている人たちの所得を上げなければ、破綻するのは目に見えている。そこで、大事になってくるのは、下りるときに、できるだけ子どもや孫に迷惑をかけないことだ。上の世代は、周囲のいろいろなものを捨て散らかしたりしないで、美しい山の自然を残したまま、静かに、整然と、下山してほしい。彼らが下山するときにかかる労力や費用は、彼ら自身で賄うべきである。上の世代が自己完結的に、ストイックに下山することが何よりも大事なのだ。

もう一つ大事なのは、下りる世代がいる一方で、これから山を登っていく若い世代がいるわけだから、最低限、彼らが山に登るのを邪魔しないこと。若い世代がこれから山を登ろうという矢先に、「経済成長はよくない」「拡大路線はもう限界だ」「目先の利益ばかり追いかけてきたから、原発事故が起きたんだ」と、山に登ることそのものを否定しようとする。これは本当に勘弁してほしい。若い世代からすれば、「原発事故が起きたのは、自分たちの責任でも何でもない。上の世代が勝手につくって、危機管理が甘かったせいでこうなってしまった。自分たちがツケだけ払わされぶのは勘弁してほしい」。彼らの気持ちを代弁すると、こんな感じになるだろうか。

「自分たちはこれから先、あなたたちよりも長く生きることになる。国の借金ものしかかるし、嫌でも放射能とつきあっていかなければいけない。だから、あれもこれも押しつけるのはやめてくれ。せめて、自分たちの老後の費用くらい、自分たちで賄ってほしい。貯金もあるし、持ち家もあるんだから、下山するなら自分のお金で。道連れにだけはしないでほしい」経済力の低下、その先にくる本当の悲劇とは?エコ&節約の時代だから、大きな買い物はせずに身の回りの小さな幸せを見つけようとか、カツカツ働かないでゆっくり生きようとか、成長を追い求めずに小さくまとまる発想は、一見、人に優しい気がするものだ。だが、この手の一見もっともらしい話はとても危険だということを忘れてはならない。


2013年7月11日木曜日

日米蜜月時代の到来

振り回される円に転機が訪れたのは、クリントン政権の副大統領だったアルーゴアを破ってジョージ・W・ブッシュが第四十三代大統領に当選した二〇〇一年一月からである。折しも日本では〇一年四月に、構造改革を掲げる小泉内閣が誕生し、クリントン時代には戦後最悪だった日米関係は、「ロンーヤス時代」をも上回る友好時代を迎えた。リンゼー大統領補佐官がホワイトハウス入りする直前の二〇〇〇年末にワシントンで対日経済政策を中心に行った講演が注目に値する。それによれば、ブッシュ政権の対日政策は、次のような枠組みになっている。

第一に外圧を控えめにすること。日本の改革は日本の政治家だけができる。外圧を加えれば改革とともに起きる痛みを米国のせいにされるだけだ。クリントン政権のような方法は日本の政治家の反米志向を強め、日本を内向きに孤立させかねない。第二に助言の仕方を変えることだ。国益だけを求めた助言ではなく、共通の原則にのっとった話し合いが必要だ。米国は日本の財政・金融政策の細かいところまで決めるべきではない。第三に日本の改革の米国経済への影響について注意深く考える必要がある。日本が財政改革に踏み切れば、米国の貿易・資本市場に影響を与える。その場合、我々は相互の政策協調や市場の開放で解決することを望む。為替相場の変動は望まない。

次の十年には大きな変化があるだろう。日本との関係を軽視した過去十年は不幸だっただけでなくおそらくは維持できないものだった。外圧にかわって相互の協力と尊敬にのっとることが必要だ。それが世界の二大経済大国にとって適切な政策だI。小泉首相はこの路線に乗った。〇三年五月から、政府・日銀は巨額の円売り・ドル買い介入を始めた。前年の〇二年春以降、米国の「双子の赤字」を織り込む形で、ドルは徐々に下落していた。そうしたなかで、円高の加速を防ごうと政府・日銀は〇三年一-三月には合わせて十七営業日、金額にして二兆三千八百六十七億円の円売り介入を実施した。

その後、円相場が小康を取り戻したことで、政府・日銀は介入をやめたが、五月八日に円売り介入を再開した。一ドル=一二〇円近辺で推移していた円相場が一一五円の壁を突破する勢いを示したからで、円売り介入額は六月末までに四兆六千百十六億円にのばった。円売り介入額は、介入ゼロの四月を入れた四上八月の四半期ベースでみても、この時点では過去最高となった。大量介入の引き金となった、〇三年春の円高・ドル安。うっかり発言の多かった当時のジョンースノー米財務長官が、□を滑らし「ドル安容認」ととれる発言をしたことが直接のきっかけだ。雪道で滑って尻餅をつくことになぞらえて、「スノー・スリップ」といったジョークも飛び出した。

実は、根っこはもっと深いものだった。ひとつは、米国のデフレ懸念と金利動向である。グリーンスパン議長の率いる米連邦準備理事会(FRB)が、〇三年五月六日の連邦公開市場委員会(FOMC)で、「望ましからざる継続的なインフレ率の低下」という表現で「デフレの懸念」に言及し、追加的な金融緩和を示唆したのである。デフレを食い止めるために、ある程度のインフレを喚起する政策を「リフレーション」という。リフレ政策の下で、米国の長期金利が下がれば、金利面から米国債への投資に魅力がなくなるとみて、ドル安が進もうとしていた。

2013年7月10日水曜日

為替相場はどうやって決まるのか

おカネの価値(キャッシュフロー)を自由に加工できるデリバティブの市場が拡大したことで、金融商品相互間でマネーは自由に行き来するようになり、投資資金は楽々と国境をまたぐようになったのだ。国内の経済要因からは思いもよらない形で、株価や金利が変動する時代が到来しつつある。長期には当てはまる購買力平価説肝心の問いに戻ろう。為替相場はいかにして決まるのか。神様も手を焼くという「円・ドル相場」を占ううえでのポイントは何か。為替相場を数年から十年単位の巨視的な流れでみれば、内外の物価上昇格差、なかでも貿易財の上昇格差に応じて決まってくるとされる。

これが購買力平価(Purchasing power parity)説である。購買力とは、端的にいえば通貨の使いでである。物価が上昇すれば、その国の通貨の使いでは目減りしていく。二つの国の物価上昇率を比べれば、どちらの国の通貨の使いでがあるかが比率で求められる。こうして、ある時点の為替相場を基に、その後の二つの国の物価上昇率を比べることによって、購買力平価ペースの為替相場が求められる。例えば、七三年に変動相場制に移行して以来の円高・ドル安は、米国の物価上昇率が日本を上回っていたことに伴う、円の購買力の上昇として説明される。ごもっとも。だが、それだけである。というのも、数年から十年の単位で為替相場が購買力平価に沿って動くとしても、その間の相場は山あり谷ありで、一本調子の円高が続いていたとは、とてもいえないからだ。

例えば、八〇年代前半のレーガン政権時代の異常ドル高から、八五年九月のプラザ合意をきっかけに進んだ急速な円高・ドル安。九〇年のバブル崩壊直後のドル高を経て、クリントン政権発足を機に九五年四月には一時、一ドル=八〇円をも突破した超円高。そして、日本の金融危機をきっかけにした九八年の円安や、〇三年九月のドバイでのG7会議をきっかけにした円相場の急騰、〇七年に入って際立った円の独歩安、一〇年七月時点で再び一ドル=八〇円台の円高になっていることなど。その間に年率何十%もの物価変動があったわけではないので、円の動きは購買力平価説ではとても説明できない。そこで、「為替取引は異なる通貨の間の交換である」、という点に戻って考える必要がでてくる。要するに、円・ドル相場とは円とドルの交換比率である。マーケットでドルに対する円の需要が多ければ、円高・ドル安になる。反対に、円の需要が少なければ、円安・ドル高になる。こう考えるのが、一番素直というものだ。

国内外の為替の需給を左右するものは何か。真っ先に思いつくのが、ある一定期間の海外との経済取引を集計した「国際収支」である。「国際収支」の主役は二人。主にモノやサービスのやりとりを集計した「経常収支」と、海外との株式、債券の取引や企業買収などに伴う投資の流れを集計した「資本収支」である。このほか、どの項目にも分類できない「誤差脱漏」と、外為市場に対する政府の介入に伴う「外貨準備増減」というのがある。グローバル経済の主役、米国では「誤差脱漏」が非常に大きく、〇三年度の日本では巨額の円売り介入で「外貨準備」の増加が際立っている。

基本に立ち返って「経常収支」と「資本収支」に注目しよう。為替相場を論じるときに、日本に住まう我々はついつい「経常収支」にスポットライトを当てがちである。「経常収支」のなかでも、「貿易収支」に注目し、日米の貿易不均衡を論じることは、エコノミストやジャーナリストの倣いとなってきた。政策担当者もこのテーマに縛られ続けてきた。それにしても、七一年のニクソンーショックによる突然の金・ドルの交換停止とドルの切り下げと、八五年のプラザ合意による円相場の急騰、そしてクリントン政権によるドル安容認に端を発した九五年の超円高は、いずれも日本の経営者や政策当局者のトラウマ(心的外傷)となってきた。

2013年7月9日火曜日

欧州安定基金の創設

年金・賃金を凍結し、賞与を廃止する。日本の消費税に当たる付加価値税を二一%から二三%に引き上げる。奢侈税・たばこ税・酒税を引き上げる。一気に打ち出された緊縮策が、それまで生ぬるい湯に浸かっていた労組の憤激を買い、ゼネストを誘発した。その際の混乱は冒頭に記した通りである。それでも緊縮策を通さなければ、一〇年五月十九日に迫っていた国債の借り換えはままならず、国家破産してしまう。そんな危機意識に背中を押されて、ギリシヤ議会は五月六日に財政再建策を承認した。だが、これはギリシヤが国として会社更生の適用を申請したようなもので、投資家、当局、納税者そして誰よりもギリシヤ国民にとって、悲劇の幕は開いたぽかりなのだ「0ut of order」となった経済の道のりは続く。

今やユーロという人造通貨は累卵の危うきに陥った。二〇一〇年五月に入り対ドルで心理的なカベだった一ユーロ=一二ニドルを割り、円に対しても一ユーロ=一一〇円近辺までつるべ落としとなった。五月七日のユーロ圏首脳会議はユーロ防衛のための基金の創設で合意した。ファロンパイEU大統領は、「EUとECBが最大限の手段を活用する」との声明を発表した。「最大限」とは威勢がよいが、基金の規模は当初は七百億ユーロ程度が想定されていた。ギリシャ一国だけで千百億ユーロはかかろうというのに、これでは見せ金もいいところ。それもこれも、ユーロの最大加盟国であるドイツが危機対策のための財政負担を嫌ったからだ。

財政資金の用意に手間取るなら、ECBが加盟国の国債を買い入れるという手段だってあった。五月六日にリスボンで開いたECB理事会後の記者会見では、トリシエ総裁に国債買い入れに関する質問が集中した。が、総裁は「そんなことは議論しなかった」の一点張り。スタンダードーアンドープアーズ(S&P)が「投機的」水準まで格下げしたギリシャ国債を担保に、ECBは資金を供給している。このうえ、国債の買い入れまで呑まされてはかなわない。そんな本音がほの見えた。そのないない尽くしが、トリシエ総裁の母国フランスのサルコジ大統領の逆鱗に触れた。

五月九日、日曜日。EU本部のあるブラッセルに集まったEUの財務相たちは、悲壮感に溢れていた。五月十日未明まで半日に及ぶマラソン会議で、EUはIMFの助けを得て総額七千五百億ユーロ、一ユーロ=一一〇円換算で八十二兆円強の「欧州金融安定基金」の創設を決めた。EUの仕組みを定めたリスボン条約一二二条二項に基づき、自然災害と同等の「制御できない例外的な事態」に備えたものである。この七千五百億ユーロは三本立てになっている。まず、EUが既存の国際収支援助計画を拡充し、EUの執行機関である欧州委員会が債券を発行する。財政危機に陥った国の要請に基づいて融資する。その金額は六百億ユーロ。これが第一段階である。

次の第二段階では、ユーロ圏十六カ国が期限三年の特別目的基金(SPV)を作る。ユーロ圏十六力国に保証してもらって、この基金が市場で資金を調達する。第一段階では資金が足りなくなった際の備えで、その金額は四千四百億ユーロだ。それと並行してIMFのお出ましを願う。IMFは全体の融資の三分の一に当たる二千五百億ユーロを負担する。その際はEU域外からの信用補完を受ける。もはや欧州が身内の面倒を身内で見られなくなった証拠である。その分、IMFの融資条件は厳しく、財政再建を厳格に監視する。ギリシヤ支援の七倍近い規模の「金融安定基金」に加え、五月十日にはECBがユーロ圏諸国の国債の買い入れを決めた。機能不全に陥った国債及び社債の流通市場への介入を発表したのだ。ギリシヤなどPIIGS諸国の国債に対する救済策と言ってよい。買い入れはしないという決定をわずか四日間で覆したのである。ECBの信認低下は避けられない。

2013年7月8日月曜日

マクロ経済学は相対性理論の世界

それは経済学者が怠っているからというよりも、あまりにも急速に、経済の方が巨大化し、複雑化しているためでもある。しかも経済学の中にも、いくつもの流派があり、基本的な問題についても見解が異なることがしばしばである。残念ながら、もっとも有力な経済学説でさえ、現実に起きている経済現象を、ごく大雑把に、あるいは、ごく部分的に説明できているに過ぎない。普遍性があるように思われた理論も、別の時代には、まったく成り立たなかったりする。しかも、それに政治や組織の体質というものが絡むと、もっと奇怪なことが起こりはじめる。先の章でも述べたが、経済学の世界では完全に時代遅れとなって、すでに否定されている理論が、れっきとした政策として採用されたり、経済学の常識から言っても、それだけはやってはいけないというようなことが、堂々とまかり通ったりしてしまうのである。

ことにデフレについては、経験も理解も乏しかったのである。戦後五十年、経済は右肩上がりが続き、オイルショック以降、問題となり続けたのは常にインフレであった。バブルもまた、上地や株の資産インフレであった。インフレの経済学については、身近なところに実例がたくさんあり、それについては、よく研究され、政策当局も、インフレのコントロールということには、ある程度、習熟していたと言える。ところが、デフレとなると、実際に誰も体験したことがなかった。本格的なデフレが最後に起きたのは戦前であり、世界的に見ても、デフレという現象は、大恐慌以降、ほとんど起きていなかったのである。

そのため、デフレのデメリットについて、実感も危機感も乏しかった。「良いデフレ」という言葉が用いられたりしたのも、そうした認識不足のためだった。実際、物価が下がることは良いことであり、経済の安定化につながると考える一部の経済学者たちもいた。物価が下がると、同じ所得を得ていても、購買力が増し、裕福になるからだというのである。同じ所得が得られなくなることには考えが及ばなかったというわけだ。幸いなことに、ようやく日本銀行や政策立案者たちも、過ちに気づき始め、舵を取り直しつつあるように思えるが、そこでもまた手ぬるい対応に終われば、復活のチャンスを本当に失ってしまいかねない。

混乱を招きやすい要因の一つは、グローバル化時代の経済は、かつての経済の常識が通用しなくなっているということである。ところが、多くの国民も、その代表である政治家も、経済通と言われる人でさえも、その点をあまり理解していない。そもそも国全体の経済は、一人ひとりの個人や一つひとつの企業の経済とは、まったく異なる「常識」で動いている。前者はミクロ経済学といい、後者はマクロ経済学と呼ばれる。しかもグローバル化した開放経済のもとでのマクロ経済学は、ミクロ経済学がニュートン力学の世界ならば、相対性理論のような世界であり、常識的な原理が当てはまらないのである。自分の発射したピストルの弾が、どこまでも真っ直ぐ進み続けて、自分の頭を撃ち抜くというような不可思議な現象が、マクロ経済学では起きるのだ。

たとえば、景気対策に行われる代表的な政策である減税と公共投資を例にとろう。景気を良くするために、大規模な減税や公共投資を行い、すこし景気が良くなったと思ったら、円高がやって来て、回復しかけた景気を台なしにするということをしばしば経験していないだろうか。だが、これは、マクロ経済学的に言うと、必然的な結果なのである。減税や公共投資の増加は、通貨高を引き起こし、輸出を減らす方向に働くのである。助けたつもりが、輸出企業を苦しめ、雇用を減らす結果になる。それを防ぐためには、十分通貨供給量を増やしておく必要がある。日銀がそれを十分にやっていないと、円高になってしまう。

2013年7月6日土曜日

非常に心理的、精神的な現象でもある

さすがに近頃では、日本のあまりの迷走ぶりに、事態が本当に危うくなりかねないと見たのか、高みの見物と決め込んでいた人たちも、いい加減にしろと叫び始めているが、少し前までは、日本人はバッシングを避けるために、落ち目のふりをしているのではないかという意見さえもあったほどだ。彼らからすると、そんなに弱っているということが、まるでピンとこなかったのだ。しかし、現実に三万人を超える人が毎年自殺し、百万人を超える人がうつ病で治療を受けなければならないほど弱り続けているのである。一体、これはどういうことなのか。疑問は深まるばかりだった。

畑違いの問題にこれ以上関わるのはよそうと思いつつ、気が付いたら、私は深みへ入り込んでいた。もうここらで引き返そうと何度も思いながら、だが、疑問に思ったことは、おざなりに放置しておけない性分から、とうとうその核心部分にまで踏み込んでしまっていた。それまで私は、日本の陥っている状況が避けがたいものであり、仕方がないこととして受け止めるしかないと思っていた。だが、実際には不可避というよりも、むしろ人為的に招きよせた面が少なからずあるばかりか、本来一時的な現象を、永続的な現象であるかのように思い込んでしまい、自らの首を絞める方向に加速してしまった悪循環のプロセスが大きく関わってきた。それは、国全体が、間違った認識に陥ることによって、国自体を自ら弱らせてきた過程であり、それに無宰の国民が巻き込まれ、犠牲の山を築いてきたという状況である。その状況は、さながら、かつての戦争に至る自滅的な道程を思わせるものがある。

なぜ精神科医の私かこういうことを言わなければならないのかと言えば、一つには、それが経済的な現象であると同時に、非常に心理的、精神的な現象でもあるからだ。本論で述べていくように、三万人を超える自殺者のうち約三分の一は、デフレーションによってもたらされたデフレ自殺だと考えるが、このデフレという現象は、経済学的な現象であると同時に、心理的なダイナミズムが大きく関わっており、人々の心理状態がその発生に関与するだけでなく、デフレ状態が、逆に精神状態に影響を及ぼし、世界観や未来観さえも左右してしまうのである。

デフレから脱するためには、経済・金融政策が重要であるのは言うまでもないが、それだけでは不十分で、人々に取りついた悲観的な認知を修正することが必要なのである。ところが、経済の専門家たちさえも、悲観論を煽るような論調で、ますます国民を不安に既めるばかりである。そうした状況に危惧と苛立ちを覚え、見殺しにされてきた国民のためにも、一言言っておく必要があると思うに至ったというのが、二つ目の理由である。この三十年、何が起きてきたのか、どこで間違ったのかを正しく認識することが、日本が悪夢と迷妄から目覚め、この悪循環のプロセスに終止符をうつためには是非とも必要に思えるのである。

この十三年だけで、四十二万人もの人が、自殺によって人生を終えている。これは、太平洋戦争における空襲(原子爆弾を含む)による民間人の犠牲者五十万人に迫るものである。自殺に追い込まれ、自ら命を絶たなければならなかった人も、なぜ自分が死へ追い込まれたのか、それを知る権利はあるだろう。ただ、うつになったから、経済苦で追い詰められたからでは、本当の説明にはなっていないのだ。何かその状況を生み出したのか、そして生み出し続けているのかを知ることが、こうしている間にも、十七分に一人の人が命を絶っている状況に、もっと根本的な手立てを講じることにつながるはずである。

2013年3月30日土曜日

使えなければただの物体

東京オリンピックを境に、日本は高度成長時代に突入します。雑誌も急速に大型化、カラー化か進み、ビジュアル時代を迎えます。そのためカメラも、露出計連動ないし露出計内蔵の必要に迫られました。取材対象も多様化、これに対しニコンは、フイッシュアイ(魚眼)から1200ミリまで、三十種におよぶレンズ群の充実で応えました。距離計連動のニコンSPは、メカニズム的に改良の余地がないところまで行ったという理由で昭和四十年六月に製造中止となりましたが、わが写真部では、その後も十七年間使っていました。昭和四十九年六月に販売停止になったニコンFも、それ以後、十三年間にわたって現役でありつづけました。

ニコンFは、その後、F2、F3、F4、F5と、新しい機能を搭載した機種を出しつづけて現在にいたっています。ニコンFシリーズがユーザーの心をつかんだのは、初代から最新型までの四十年間、F系列の全機種でレンズマウントが不変であったからではないでしょうか。ちょうど筆者が出版社‐の写真部員になったときに使い始め、生産打ち切り後も、優秀さゆえに別れを告げられなかったカメラたちが、いまクラシックカメラーブームの主役になっているわけですが、発売当時の値段は、いずれもめっぽう高価なものでした。ニコンSPは初任給の約八倍、単純比較はできませんが、現在の初任給が二十万円とすれば、その八倍で百六十万円です。いまなら立派な乗用車が買える値段です。

現在のニコンの最新型カメラは、50ミリFI・4の標準レンズ付きF5でメーカー希望小売価格(税別)は三十六万三千円です。現在、クラシックカメラの目玉になっているニコンSPの値段とほぼ同じです。昔のカメラはすべて手動。露出も絞りもシャッタースピードも、何から何まで自分の頭で考えて決定していました。この手動カメラの対極が、いまの押せば写るカメラです。コンパクトカメラから使い捨てカメラ、高級カメラにいたるまで、搭載されたコンピューターがフィルムの感度の読み取りから、露出やピント合わせまでやってくれます。被写体の動く先を読み取るレンズどころか、ファインダーをのぞけば、目玉の動く先々にピントを合わせてくれるカメラまで現われています。こうなると、人間がすることは構図の最終決定とシャッターボタンを押すだけです。

いまやカメラは全能に近いところまで進歩したわけですが、ここに思わぬ落とし穴がありました。搭載されているのは全能のコンピューターかもしれませんが、使うほうはわれわれ人間だということです。いくら便利な機能が満載されていても、使いこなせなければただのオブジェにすぎません。全自動カメラを買って、まず格闘しなければならないのが操作マニュアルです。それも、あまりにも機能が多すぎて、一度やニ度、試してみても覚えられません。

故障でもすれば、修理も大変です。以前は、探せば町のどこかにカメラの修理屋さんがあったものですが、いまのハイテクカメラは、そんな職人技では歯が立ちません。メーカーのサービスーセンターに持ち込んで、ブラックボックスと化した部品を丸ごと交換してもらうしかありません。その分、修理代も、というより部品代も高くつきます。いま頃になってクラシックカメラに人気が集まり出したのは、単なる骨董趣味や手仕事へのノスタルジーだけではなく、案外、こんなこととも関係があるのかもしれません。