2013年7月8日月曜日

マクロ経済学は相対性理論の世界

それは経済学者が怠っているからというよりも、あまりにも急速に、経済の方が巨大化し、複雑化しているためでもある。しかも経済学の中にも、いくつもの流派があり、基本的な問題についても見解が異なることがしばしばである。残念ながら、もっとも有力な経済学説でさえ、現実に起きている経済現象を、ごく大雑把に、あるいは、ごく部分的に説明できているに過ぎない。普遍性があるように思われた理論も、別の時代には、まったく成り立たなかったりする。しかも、それに政治や組織の体質というものが絡むと、もっと奇怪なことが起こりはじめる。先の章でも述べたが、経済学の世界では完全に時代遅れとなって、すでに否定されている理論が、れっきとした政策として採用されたり、経済学の常識から言っても、それだけはやってはいけないというようなことが、堂々とまかり通ったりしてしまうのである。

ことにデフレについては、経験も理解も乏しかったのである。戦後五十年、経済は右肩上がりが続き、オイルショック以降、問題となり続けたのは常にインフレであった。バブルもまた、上地や株の資産インフレであった。インフレの経済学については、身近なところに実例がたくさんあり、それについては、よく研究され、政策当局も、インフレのコントロールということには、ある程度、習熟していたと言える。ところが、デフレとなると、実際に誰も体験したことがなかった。本格的なデフレが最後に起きたのは戦前であり、世界的に見ても、デフレという現象は、大恐慌以降、ほとんど起きていなかったのである。

そのため、デフレのデメリットについて、実感も危機感も乏しかった。「良いデフレ」という言葉が用いられたりしたのも、そうした認識不足のためだった。実際、物価が下がることは良いことであり、経済の安定化につながると考える一部の経済学者たちもいた。物価が下がると、同じ所得を得ていても、購買力が増し、裕福になるからだというのである。同じ所得が得られなくなることには考えが及ばなかったというわけだ。幸いなことに、ようやく日本銀行や政策立案者たちも、過ちに気づき始め、舵を取り直しつつあるように思えるが、そこでもまた手ぬるい対応に終われば、復活のチャンスを本当に失ってしまいかねない。

混乱を招きやすい要因の一つは、グローバル化時代の経済は、かつての経済の常識が通用しなくなっているということである。ところが、多くの国民も、その代表である政治家も、経済通と言われる人でさえも、その点をあまり理解していない。そもそも国全体の経済は、一人ひとりの個人や一つひとつの企業の経済とは、まったく異なる「常識」で動いている。前者はミクロ経済学といい、後者はマクロ経済学と呼ばれる。しかもグローバル化した開放経済のもとでのマクロ経済学は、ミクロ経済学がニュートン力学の世界ならば、相対性理論のような世界であり、常識的な原理が当てはまらないのである。自分の発射したピストルの弾が、どこまでも真っ直ぐ進み続けて、自分の頭を撃ち抜くというような不可思議な現象が、マクロ経済学では起きるのだ。

たとえば、景気対策に行われる代表的な政策である減税と公共投資を例にとろう。景気を良くするために、大規模な減税や公共投資を行い、すこし景気が良くなったと思ったら、円高がやって来て、回復しかけた景気を台なしにするということをしばしば経験していないだろうか。だが、これは、マクロ経済学的に言うと、必然的な結果なのである。減税や公共投資の増加は、通貨高を引き起こし、輸出を減らす方向に働くのである。助けたつもりが、輸出企業を苦しめ、雇用を減らす結果になる。それを防ぐためには、十分通貨供給量を増やしておく必要がある。日銀がそれを十分にやっていないと、円高になってしまう。